2015.8.27 本田善光は百済の王子・余善光6 飯田市の古墳
↓はヤシマジヌミノミコト(タケミナカタノミコト)の13人の子の名前です(^o^)。
地図を見ると、最古の代田山狐塚古墳も含めて飯田市の古墳は天竜川の右岸から少し離れた所に川の流れに沿うように並んでいるようですから、やはり古代にはこの古墳が並んでいる辺りまで川幅があったのだろうと思います(^o^)。
「伊那郡衙は座光寺の高岡の森南側に広がる恒川(ごんが)遺跡群にあった」のだそうですが、私は全く土地勘がないので、高岡の森や恒川遺跡群がどこにあるのかが分かりません<(_ _)>。やっと国道沿いに「恒川清水」の表示を見つけたのですが、この辺りは飯田線と国道153号に挟まれた住宅地で、現在は森はないようです(^_^.)。
恒川遺跡群は飯田線の線路より天竜川寄りにあって標高430mくらいのようですが、この辺りでは古墳は飯田線より山寄りの440m以上の所に並んでいるようですから、4~6世紀の古墳がさかんに造られていた頃には飯田線の線路の辺り(440m前後)が天竜川の水際で、8~9世紀に伊那郡衙が造られた頃には国道153号の辺り(430m前後)が天竜川の水際になっていたのではないでしょうか(^o^)。
21世紀の今、川が流れているのは400mの所ですから、天竜川ができた頃から今までの間に440mの線路から400mの現在の川までの平地は、川→湿地→水田→線路や道路や住宅地と変遷してきたのでしょう(^o^)。
平地を流れる川の周辺の広大な平野を、学者さんたちが「川が作った河岸段丘」や「川の氾濫原」としていることに私は疑問を持っていたのですが、天竜川の場合は古代諏訪湖の釜口の決壊によって大量の水が一度に土石流となって流れ落ち、その勢いで削られて平地になったのでしょうから、これは間違いなく川が作った河岸段丘ですね(^o^)。
古代諏訪湖から流れ出す水の量は、流出口の高さまで湖面が下がるにつれて徐々に減っていったでしょうし、この流出口には1937年(昭和12年)に釜口水門が設けられて湖面の水位や流出量が調節されていますから、流れはかつてより細くなり穏やかになっているのでしょうね。
でも「天竜下り」は豪快だと聞きますから、やっぱり今も急流なのかな?私は天竜川の起点の諏訪湖の釜口水門と、新幹線が渡る天竜川の河口付近しか見たことがないのですが(^_^.)。
川とその周辺の地形や古墳や遺跡との位置関係などは、「百聞は一見に如かず」で行って実際に見てみるのが一番ですし、そういう視点から地形や遺跡を見てみると思いがけない発見がいろいろあるのですが(^o^)、現地を全く知らないまま地図や文献だけから考えていると見当違いの推理になってしまうかもしれませんから(^_-)、いつか出かけて行って地形や位置関係を確かめて写真を撮り、地元の資料館を訪ねてここまでの推理を確認できるような地域資料を収集してきたいものです。
「現場を踏む」フィールドワークは探偵の基本ですし、写真は百の言葉を尽くして説明するよりも説得力がありますものね(^_-)。