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穂高神社と安曇野106 安曇族(海人族)44 宗我神社2

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2016.10.19 穂高神社と安曇野106 安曇族(海人族)44 宗我神社2
 
「曾我都比古神・曾我都比売神を祀る宋我坐宗我都比古神社」があるという橿原市一帯は、崇神の東征時に論功行賞として来目邑を貰って来目氏を名乗るようになった海人族(宗像氏・安曇氏らの一族)の奈良の本拠地であり、ここを流れる曽我川の下流には、応神天皇と共に百済からやって来た東漢氏(やまとのあやうじ)たちの墓所である新沢千塚古墳群がありますから、橿原市の曽我が応神系王族の支配地の一つであったことは間違いないようです。
 
新沢千塚古墳群
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『古代飛鳥を歩く』には、古代には男のリーダーが軍事面を、女のリーダーが祭祀面を担う「ヒコ―ヒメ制」があったと記され、「邪馬台国の卑弥呼と男弟」「推古天皇と聖徳太子」などの例が示されていましたが、「推古天皇と聖徳太子」は架空の人物ですし、「神」とは人間(支配者の祖先)であって、「神社」とは子孫が祖先を祀る「祖廟」であり、ヒコ・ヒメは身分を表すカバネだったのですから、私は「地名+ヒコ(男)・ヒメ(女)」として祀られている祭神は、その地の支配者夫妻(王と王妃)であろうと思います。
 
霊能を持つ女性がそんなにどこにでもいたはずはありませんし、もし各地にいたとしても、それは「カミの言葉を伝える役目の巫女」であってその人自身がカミとして祀られたはずはないと私は思うのですが(^_-)
 
宋我保慶がわざわざ橿原の曽我から相模の曽我にやって来て祖先のお墓を訪れたということは、一族の宗我都比古(宗我の男)がこの地の支配者になっていて、そのお墓が相模の曽我にあるということを宋我保慶が知っていたということだろうと考え、この近くに古墳があるかどうか探してみると、小田原市曽我別所の曾我兄弟の墓で有名な城前寺の裏手に「物見塚古墳」という6世紀後半に造られた円墳があり、発掘時には既に天井石と側壁を失っていて石室の石材を残すのみだったけれど鉄鏃・刀子(とうす)・金環(金属製耳環)が出土していたことが分かりました。築造された時期と場所から見て、これが1028年に宋我保慶が訪れた宗我都比古之命のお墓だったのではないでしょうか(^o^)
 
この古墳の近くには「曽我氏館址」があるそうですから、宗我都比古之命のお墓のすぐ近くに館を立てて住んでいた曾我兄弟は宗我都比古之命の子孫だったのかもしれません。2013年に宋我神社に行った時には曽我兄弟のことは全く頭になかったので、残念ながら古墳のある場所には行きませんでしたが(-_-;)
 
曽我兄弟で、2010年に虎塚古墳に行った時に見た無数の横穴墓「十五郎穴」のことを思い出しました。調査中のものにはあちこちにビニールシートがかぶせてありましたが、あれは今どうなっているのかな~?この横穴墓は曽我兄弟とは全く関係がなかったのですが、「虎塚古墳」の名前は曽我五郎・十郎からの連想で命名されたという意外な事実を知って大笑いしたこともついでに思い出しました(^o^)
 
十五郎穴
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キトラ古墳は2015年に行った時には工事中でどこにあるのかも分からなかったのですが、修復を終え、その全容を紹介する「キトラ古墳壁画体験館四神の館」が9.24にオープンしたそうです。
 
虎塚古墳の秋の公開日ももうすぐですね(^o^)

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