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穂高神社と安曇野107 安曇族(海人族)45 曽我兄弟

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2016.10.20 穂高神社と安曇野107 安曇族(海人族)45 曽我兄弟

 

物見塚古墳があるのは、「曽我兄弟の墓で有名な城前寺の裏手」だそうですが、ふと曽我兄弟って何で有名なんだっけ?とよく知らなかったことに気が付いて調べてみました(^_^.)

 

源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曽我祐成と曽我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討ったという事件の主人公で、この仇討は「赤穂浪士の討ち入り」「鍵屋の辻の仇討ち」に並ぶ、日本三大仇討ちの一つなのだそうです。そう言えば虎塚古墳の名前の由来を知った時に調べてみたことがあったのですが、仇討には興味が持てなかったのですっかり忘れてしまっていました<(_ _)>

 

十郎が兄、五郎が弟で、この二人は「伊豆に流されていた頼朝の子を娘が産んでしまったため、生まれた子を殺し頼朝も殺そうとした伊豆国伊東の伊東祐親」の孫で、祐経によって父祐通が殺された後、母の再婚相手の曽我祐信のもとに預けられたために「曽我」を名乗っただけで、宗我都比古之命とも宋我神社とも全く関係はないようですから、蘇我氏の子孫ではなかったようで、虎塚古墳の名前になった虎御前は、大磯宿の遊女だったそうです。

 

この仇討事件の発端は、身内同士の所領争いであり、

 

伊東荘を領する工藤祐隆の嫡男であった父・伊東祐家が早世すると、祖父・祐隆(法名・寂心)は後妻の連れ子である伊東祐継を嫡子として本領の伊東荘を与え、嫡孫の祐親を次男として河津荘を与えた。総領の地位を奪われた事に不満を持つ祐親は、祐継の死後にその子・祐経から伊東荘を奪った。

これを恨んだ祐経は安元2年(1176年)10月、祐親の嫡男・河津祐泰を狩りの場で射殺し、これがのちに祐親の孫達が起こす曾我兄弟の仇討ちの原因となった。

 

のだそうです。天皇家からシモジモまで、少しも変わらぬ家督争い、遺産争い、財産争いのオハナシのようで、どっちもどっちだし、曽我兄弟に父を殺された祐経の子は曽我兄弟を仇討にしようと思うでしょうから、どちらかの子孫が絶えてしまうまでエンドレスなんじゃないかな~?どうしてこんなオハナシがそんなにもてはやされたのだろう?と私は思ったのですが、「一所懸命」は男のロマンだということなのでしょうか(^_^.)

 

胡為 乎遑 遑欲何之   

富貴 非 吾願      

帝郷不可期        

 

胡為(なにせ)んとて 遑(あわただ)しくも

遑しくも何(い)ずくにか之(ゆ)かんと欲する

富貴は吾が願いに非ず

帝(みかど)の郷(くに)は期す可(べ)からず

 

・・そんなに急いで何処へ行くのだ 富も権力もつまらぬものだよ・・

 

ところで、2012年の秋に群馬県の箕郷でキツネの嫁入り行列に遭遇したのですが、その行列の中に「吉原の狐舞ひ」の旗を立てた一団がいました。なぜ吉原に狐?と疑問に思ったまま忘れていたのですが、先日思いがけなくその関係が分かりました。吉原では、大晦日には獅子舞の代わりに狐舞が行われていて、白い狐面を被って美しく着飾った「福狐」が練り歩いたのだそうです。箕郷で遭ったのはこの吉原の「福狐」だったのですね(^o^)

 
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鎌倉幕府は将軍の膝元で起きた衝撃的なこの事件を意図的に隠そうとしたそうで、隠されていた史実を物語として世に広めたのは、物語にも登場する虎御前こと虎女だったのだそうです。『曽我物語』には、寅年の寅の日の寅の刻に生まれたので三寅御前と名づけたとあるそうですが、この人は実際には未(ひつじ)年の生まれだったのだそうですから、物語で自ら「虎御前」と名乗ったのは、権力には屈しないという意志表示だったのかも(^o^)

 

吉原では、遊女は「狐」と呼ばれていたそうですが、大磯の遊女は幕府に噛み付く猛虎だったようですね。




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