2016.10.17 穂高神社と安曇野104 安曇族(海人族)42 日本の百済
『古代飛鳥を歩く』には、舒明天皇が自分の宮に百済大宮(くだらのおおみや)、官寺として造った寺に百済大寺(くだらのおおでら)という他国の名前を付けたことがひっかかると記されていましたが、「百済」は奈良に朝廷を置いた天津族にとっては母国(本貫の地)であって他国ではなかったのです(^o^)。舒明天皇は架空の天皇ですから、舒明天皇が百済大宮と百済大寺を造ったというのは『日本書紀』のウソですが。
「日本人」は、旧石器時代に日本にやって来て日本の原住民となっていた縄文人以外は、みな弥生時代以降に中国や朝鮮半島などからやって来て日本に住みついた人達だったのですから、海に面した大阪には、たくさんの「百済」ばかりではなく「新羅」も「高麗」もありました(^o^)。
後には高句麗人を移住させて高麗郡、新羅人を移住させて新羅郡も作られましたし、新羅に滅ぼされるまでは朝鮮南部にあった伽耶(加羅)から渡来した人達が住んだと思われる「カヤ(カラ)」という地名もあちこちにたくさん残っていますし、埼玉県の飯能(はんのう)の語源は、朝鮮語の「韓(民族)の国=ハンナラ」だという説が有力なようですし(^o^)。
国内だけを見てウソの文献のつじつま合わせをしていると、「なぜ日本の天皇の宮に他国の名前が付いているのかは謎である」ということになるのでしょうけれど、謎があるのではなくつじつま合わせの解釈が謎を作り出しているのです(^o^)。
百済に戻って百済王となった応神天皇の子孫たちが国内では王位を巡って王族同士が争い、対外的には新羅や高句麗と戦っていた頃、日本で倭王となっていた応神天皇の子孫たちも王位を巡って崇神系の王族と争い続けていたのです<(_ _)>。
継体天皇の架空の皇后の名前に武寧王の娘の名前が使われていたり、聖明王から欽明天皇に仏像が贈られたり、威徳王から仏教に関する一切のものが用明天皇に贈られてきたり、威徳王の太子だった阿佐太子が自ら日本に来たり、百済の要請に応じて朝廷が派兵したりと、応神天皇の時代の464年から、石川麻呂が殺された649年までの応神系大王の時代には、百済と日本は密に行き来をしていたようですし、ウジノワキノイラツコの教師は百済から招聘された百済の王族の阿直岐(阿知臣・阿知吉師)・和邇吉師(王仁博士)だったのですから、手白香皇女とされている欽明天皇の母(ウジノワキノイラツコの皇后)は百済の王女(王族)だったのかもしれませんね(^o^)。
相模国四の宮「前鳥神社」は、東日本では唯一のウジノワキノイラツコを祀る神社だそうですが、ここにはその師である「阿直岐命」「王仁命」も祀られていました(^o^)。なぜここにウジノワキノイラツコが祀られているのかは謎だとされていましたが、
参拝の栞には「祭神を氏の上とする氏人が移り住みお祀りしたのが前鳥神社の始まり」と記されていましたから、ウジノワキノイラツコの子孫がこの地の支配者となり、祖廟を造って「氏の上(氏神)」であるウジノワキノイラツコを祀ったということでしょう。
相模国四の宮・前鳥神社