2016.10.15 穂高神社と安曇野103 安曇族(海人族)41 善徳女王
昨日テレビをつけたら、たまたまドラマの「善徳女王」の百済が新羅に攻めてきたという場面で、「百済はプヨチャンが自ら出陣してきている」というセリフが聞こえ、「扶余璋」と字幕が出ていました。
百済は北方の扶余から来た人たちが興した国で、王族は「余」または「扶余」を名乗っていたそうですが、ドラマ「近消古王(クンチョゴワン)」では近消古王の名前は余句(ヨグ)で、王族はみな「余」を名乗っていましたから、王族の姓に「余」を、「善徳女王」では「扶余」を採用し、『日本書紀』では余昆と記されていますから「余」を採用したのですね(^o^)。
この場面では善徳女王はまだ10代で、女王になっていませんでしたが、璋はすでに百済王になっていたようです。なぜ私が「扶余璋」に反応したのかというと、ここまでに璋は応神天皇の長子・余隆の孫で、応神天皇の4世の孫にあたる百済の30代王・武王(ムワン)だということが分かったからなのです(^o^)。その系譜は
応神(余昆)―25代・武寧王(ムリョンワン・余隆)―26代・聖(明)王(ソンワン・余明)―27代・威徳王(ウィドクワン・余唱)―30代・武王(ムワン・余璋)―31代・義慈王(ウィジャワン・余義慈)―余善光(百済王・くだらのこにきし)氏
となるのですが、年代を調べてみると、武王の在位は600~641年、善徳女王は632~647年となっていますから、この場面は600~632年の間ですね(^o^)。するとその頃の日本は、アメノタリシヒコ(=蘇我馬子・585~622)~倉麻呂(=蘇我蝦夷・622~645)が大王だった時代です。
余隆は余昆の長子で、余昆が日本に向かう途中の加唐島で百済から伴ってきた妻から生まれた子ですが、ウジノワキノイラツコは余昆が日本に来てから妻にした宮主矢河枝比売(ミヤヌシヤカワエヒメ・『古事記』に記されている名前ですから本名かどうかは分かりませんが)との間に生まれた子で、その系譜は
応神―ウジノワキノイラツコ―欽明―用明―アメノタリシヒコー倉麻呂
ですから、アメノタリシヒコは、武王と同じ応神の4世の孫であり、つじつま合わせをしなくてもちゃんと計算は合っています\(^o^)/。
そして、この武王の腹違いの兄が威徳王の長子でアメノタリシヒコの時代の597年に日本にやって来た阿佐太子なのですが、聖徳太子の実在が信じられていた頃には1万円札になっていた「聖徳太子の肖像」は、この時に阿佐太子が描いたとされていたものだったのですよね。この1万円札の肖像は、教科書よりも先にお札から消えて、今は福沢諭吉に取って代わられてしまいましたが。
先日「2008年に日本書記と聖徳太子の捏造は証された筈です」とのコメントを戴いたことを思い出して、ひょっとするとお札から聖徳太子が消えたのは2008年だったのかな?と思って調べてみたら、お札の肖像が福沢諭吉に変ったのは1984(昭和59)年でした(^_^.)。
ついでにお札の肖像画の歴史を見てみたら、神功皇后・武内宿禰・菅原道真・和気清麻呂・藤原鎌足・日本武尊などもお札になっていたのですね。
でも、神功皇后・武内宿禰・日本武尊は架空の人物ですから肖像画などあるはずがありませんし、実在した菅原道真・和気清麻呂・藤原鎌足にしても、その頃に肖像画を描くような文化や習慣はなかったのではないかと思うのですけれどね~。
歴代の天皇を調べると、紀元前の天皇も含めて古代のどの天皇にも必ず肖像がでてくることを不思議に思っていたのですが、これは諡号と同じように、架空の天皇も含めて後から誰かが創ってしまったということなのでしょうね(^o^)。