2016.10.14 穂高神社と安曇野102 安曇族(海人族)40 ヲワケ臣
『記紀』の記した紀元前660年からの歴代天皇にはウソや架空の人物が多く、初代・崇神天皇以前の天皇は全部架空ですし、4世紀末の崇神天皇を紀元前の天皇に仕立てたため、崇神天皇以降にも多くの架空の天皇が創られているのです。
ここまでの推理と検証から、実在した天皇は
4世紀末~421 初代・崇神天皇(ハツクニシラススメラミコト)
421~430 垂仁(倭王・讃)
430~443 倭王・珍
443~460 倭王・済
460~464 倭王・興
464~506 応神(倭王・武)
506~525 ウジノワキノイラツコ
525~531 継体(安閑・宣化)
531~571 欽明
571~585 用明(=蘇我稲目)
585~622 アメノタリシヒコ(=蘇我馬子=聖徳太子)
622~640 倉麻呂(=高向王=蘇我蝦夷)
640~649 石川麻呂(=蘇我入鹿)
649~671 天智
672~686 天武
であろうと思います。
5人の倭王の在位年の推理については「古代の地形から『記紀』の謎を解く」の第6章をご参照ください。
この本を書いた2010年には、ウジノワキノイラツコと用明天皇にはほとんど手がかりが無くて、「欽明は応神の子で、572~585年の在位とされている敏達天皇は実在した天皇であり、たった2年で死んでしまったことになっている用明天皇は架空の聖徳太子の父として創られた架空の天皇なのではないか」と考えたのですが、その後2016年までのフィールドワークで得た手がかりから、欽明はウジノワキノイラツコの子で応神天皇の孫であり、敏達天皇が架空の天皇であって、敏達天皇が在位していたとされている期間に実際に在位していたのは用明天皇であったことがはっきりしました。
そして、辛亥年に銘文を刻んだ鉄剣を作らせたヲワケ臣は、471年の辛亥年に「架空の雄略天皇の親衛隊長だった人」ではなく、531年の辛亥の変の時に「実在の欽明天皇の親衛隊長だった人」で、6世紀に実在したこの人は、本人がこの鉄剣の銘文に刻ませたように、オオヒコノミコトの7世の孫であったこともはっきりしました(^o^)。
国宝「金錯銘鉄剣」
ヲワケ臣は、その上祖であるオオヒコノミコトから531年の辛亥年に至るまでの自分の系譜と、自分が天津族の王族であり自分の家系は代々親衛隊長の地位にあったこと、辛亥の変ではワカタケルの側で戦い、ワカタケル(欽明)が531年に磯城宮で即位してからは、磯城宮で欽明の補佐をしていたというその経歴をこの鉄剣に刻ませたのですね。
銘文に記されたその系譜は
オオヒコ―その子タカリノスクネ―その子テヨカリワケ―その子タカハシワケ―その子タサキワケ―その子ハテヒ―その子カサハヨ―その子ヲワケ臣
であり、531年に磯城でこの鉄剣を作らせたヲワケ臣は、4世紀末に東征をした崇神天皇の伯父で、東征軍の大将軍であったオオヒコノミコトの7世の孫だったのです。
銘文の読み下し文と現代語訳
以前は「ヲワケ臣」となっていたのですが、いまは「オワケ臣」となっているようですね(^o^)。