2016.10.13 穂高神社と安曇野101 安曇族(海人族)39 ワカタケル王3
雄略天皇の宮があったという場所も、雄略天皇の陵墓がある場所も、陵墓の形も不自然すぎるので、宮内庁が雄略天皇陵として囲い込んでいる古墳はどういう場所にあるどんな古墳なのかを確かめてみたいと思い、2012年の夏に大阪探訪に出かけた時、百舌鳥古墳群から12号線で藤井寺へ向かう途中で寄ってみたのですが、濠の水と木の一部が見えただけでその古墳には近づくことも全貌を見ることもできませんでした<(_ _)>。
今グーグルの航空写真で確かめてみたところ、周りに堀を巡らせた円墳で、12号線の方からではなく北側に回ればその濠と全貌が見えたようですが、誉田山古墳や大仙古墳などの巨大な前方後円墳が天皇陵として造られていた5~6世紀に、そのただ中の479年に亡くなったとされている天皇の陵墓が小ぶりな円墳に造られたはずはありませんから、そもそもこの古墳は5世紀の天皇陵のはずはありませんね(^o^)。この古墳を雄略天皇陵として囲い込んだ宮内省の治定には「論理的な整合性」など全くないようです。
2010年に調べた時には、雄略天皇陵は「円墳と方墳を繋いで前方後円墳に成形したもの」だということだったのですが、2016年の今、航空写真でははっきりとした円墳の形になっているので改めて調べてみたところ、この古墳は「島泉丸山古墳という円墳」になっていました。
この古墳の東側には前方部のような形の木立が写っているのですが、この6年の間に切り離して成形前の元の円墳と方墳に戻したということなのでしょうか? 2012年にはどうなっていたのかな?と思うと、あの時先を急いで見そびれてしまったことが残念です<(_ _)>。
5世紀初頭に造られた誉田山古墳が『日本書紀』では310年に亡くなったとされている応神天皇の陵に治定されていることも、6世紀に造られた大仙古墳が399年に亡くなったとされている仁徳天皇陵に治定されていることも、5世紀中頃に造られた太田茶臼山古墳が531年(6世紀前半)に亡くなった継体天皇陵に治定されていることも、羽曳野市にある円墳の島泉丸山古墳が479年に亡くなったとされている雄略天皇陵に治定されていることも、私には全く「論理的整合性があり妥当である」とは思えないのですが、宮内庁や歴史学者さんたちの論理ではこれらは「論理的整合性があり妥当なもの」なのでしょうか???
太田茶臼山古墳
でも↑には、「この古墳は宮内庁によって第26代継体天皇陵とされているけれど、『日本書紀』に記されている継体天皇の没年と古墳の築造年代とは異なる」と記されていますから、歴史学者さんたちも宮内庁の治定は信じていないようです(^_-)。
それでも考古学者・歴史学者さんたちの「『日本書紀』信奉」は微塵も揺らいでいないようですね。宮内庁ばかりではなく、『日本書紀』もウソだらけなのですけれどね~<(_ _)>。