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穂高神社と安曇野97 安曇族(海人族)35 歴史の教科書は変った?3

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2016.10.6 穂高神社と安曇野97 安曇族(海人族)35 歴史の教科書は変った?3
 
歴史学者と歴史小説家は解釈で歴史を創っているという点では同じで、違うのは、歴史小説家が「文献解釈から紡ぎ出した歴史」を自分のオリジナルな作品、つまりフィクションであると意識しているのに対して、歴史学者は「文献を繋ぎ合わせたもの」を事実、つまりノンフィクションだと思い込んでいるという点だけなのではないかと考えていたのですが(^_-)
 
小説ではなく、学者さんが書いた『古代飛鳥を歩く』には、
 
『古事記』と『日本書紀』は伝承的な記述によるため、神武天皇が実在かどうかは容易に定められないが、研究者によって記述される史実の歴史とともに、史実にこだわらない物語のような歴史もあってよいと私は思う。
 
と記されていましたから、学者さん自身も「日本の歴史は事実に基づかないオハナシでもいいのだ」とお考えのようです。それがこれまで『記紀』の記述を覆すような考古学的な新発見があってもそれが日本の歴史の見直しには繋がらず、戦後70年経っても相変わらず日本の歴史は世界の歴史とは全く整合性のない非論理的なもののままになっている理由なのでしょうか<(_ _)>
 
ここまで見てきたように、国家事業として何十年もかけて作った『古事記』や『日本書紀』は、学者さんたちが信じているような伝承を集めたものではありません。
 
『隋書』や『唐書』のような中国の歴史書に倣った「紀・志・伝」から成る『日本書』を作ることを構想し編纂を命じたのは、クーデタ―・壬申の乱に勝利し、馬子・蝦夷・入鹿の遺志を継いで律令制国家の構築を目指した馬子(アメノタリシヒコ)の孫の天武天皇(大海人皇子・漢皇子)ですが、天武天皇は「律令」の完成も『日本書』の完成も見ることなく686年に亡くなってしまいました。


そして、その死の26年後の712年に完成した『古事記』、34年後の720年に「紀・志・伝」のうちの「天皇紀」30巻と系図だけが完成した『日本書』は、天武天皇が構想したこの国の歴史を記す『日本書』とは全く違う作り話になってしまっていたのです<(_ _)>
 
『古事記』と『日本書紀』は、天武天皇が死去するやいなやその皇子たちを次々に謀殺し、名目上の女帝や幼帝を立てて、720年まで実権を握り続けていた不比等の意向と目的に沿って作られたものであって、伝承を採録したものだという前文からしてウソなのです(^o^)
 
『日本書紀』の書名については、元は『日本紀』だったとする説と、初めから『日本書紀』だったとする説があるそうですが、天武天皇が構想したのは、中国の歴史書に倣った『日本書』であり、そのうちの「紀」だけしか作られなかったため『日本書の紀』で『日本書紀』になったのではないでしょうか。
 
ところで、このブログはつい最近まで「練習用」というカテゴリーになっていました。私がカテゴリーというものに気が付かずに入力したものをそのまま投稿していたからなのですが、最近そのことに気付いてカテゴリーを選択しようとして迷いました。私はここまで↓のような自然科学の知識を使って日本史の謎を解いてきたのですが、考古学や人類学は「科学」のカテゴリーにあるのに歴史や日本史はこのカテゴリーには無かったのです<(__)>
 
歴史はどこにあるのだろう?と探すと、文学や演劇などと一緒に「芸術と人文」のカテゴリーの中にあったのですが、私には歴史が科学や考古学や人類学と全く別のものだとは思えませんし、自分が芸術的・文学的な解釈をしているつもりもなかったので、どのカテゴリーを選択すべきなのか迷ってしまったのです<(_ _)>
 
けれど考古学や人類学や自然科学について書いているわけではなく、日本史の謎解きをしているのだから・・・と「芸術と人文→歴史→日本史」を選択することにして、今過去の記事についても少しずつカテゴリーを変更しているところです。
 
なぜ歴史が考古学や人類学とは関係のないカテゴリーに入っているのか私は不思議でならなかったのですが、歴史学者さんたち自身が歴史学は文学や演劇と同じものであって科学ではないとお考えだったのですね<(_ _)>
 
 
 
 
 

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