2016.10.5 穂高神社と安曇野96 安曇族(海人族)34 歴史の教科書は変った?2
考古学的な所見は納得できるのに、なぜそれが歴史には反映されず、歴史は納得できないもののままなのだろう?と疑問に思って歴史学と考古学について調べてみたことがありました(^_^.)。
歴史解釈書を書いている歴史学者さんにとって「歴史学」とは、文献のつじつまが合うように解釈をすることであって、文献に書いてあることが事実かどうかを検証することはオシゴトではなく、文献に書いてあることが考古学の新発見や科学的な事実や論理性よりも優先するということのようです(^_-)。
どんなことでも「書く」ことはできるのですから、本当のことや正しいことが書かれているとは限らないのですけれどね~<(_ _)>。
↑の例などは、地元の人や行ったことのある人など、現場の地理をよく知っている人には「それは間違っている」ということがすぐに分かるのでしょうし、私のように全く知らなければそれがどこにあるのか、本当にそうなのかと調べてみたりするわけですが(^_-)、中途半端に分かっている人や、自分は分かっていると思い込んでいる人はいちいち確かめてみたりはしないのでしょうね。
先日図書館で『古代飛鳥を歩く』という本を見かけて手に取ってみたら、この4月に出たばかりの本で明日香坐神社や飛鳥寺など、去年行ってみていろいろ疑問を持った場所の写真がたくさん載っていたので、考古学の新しい発見や知見に基づいた、これまでの解釈とは違う解説が載っているかもしれないと期待して借りてきたのですが、読んでみたら聖徳太子も推古天皇も崇峻天皇も蘇我馬子も実在したとするこれまでの「定説」と何も変わらない内容でした<(_ _)>。
最新の解釈本でも固定観念は少しも変わっていないということは、もっと保守的な教科書では、変ったといっても神功皇后が消え、本人のものではないということがはっきりした聖徳太子や足利尊氏の肖像画の写真が消えたくらいで、根本的な『記紀』信奉は全く変わっていないのでしょうね(^_-)。そもそも教科書を書いているのも、選定しているのも『記紀』信奉者のセンセイ方なのでしょうし(^_-)。
『古代飛鳥を歩く』では、欽明天皇と蘇我稲目の娘の堅塩媛の間には7男6女、もう一人の娘の小姉君との間には4男1女がおり、稲目は娘が生んだ子供たちを、権力を獲得するゲームのカードとして使い、用明天皇と崇峻天皇という2枚のカードをすでに使っていたのだけれど、用明天皇はわずか2年で死んでしまうなど、この二枚のカードの切れ味はさほど良くなかったので、キングメーカーの蘇我馬子は崇峻天皇を暗殺し、最後に「女帝でいくか」と決断して日本初の女帝が誕生したのだという解釈になっていました。
これは『日本書紀』のオハナシを信じた上での「定説」どおりの解釈で、「権力獲得ゲーム」の小説の筋書きとしてなら面白いのですが、これを学者さんが歴史の事実として記すのは矛盾しています。
天皇を作ったり殺したりできる人が本当にいたのであれば、その人が真の最高権力者であって、天皇はその人の意向や都合でいつでもすげかえることのできる存在だったということになり、『記紀』のこのオハナシを信じることによって、学者さんたちは信奉する『記紀』が記している「天皇は神の子孫であり絶対権力者である」という「天皇制」を否定していることになるのですから。
そのあたりの疑問について論理的に詰めてみたら、ここまでに『日本書紀』がウソを書いていること、謎が生じたのは学者さんたちがそのウソを信じたからで、蘇我稲目とは欽明天皇の息子の用明天皇のことであり、馬子とは用明天皇の息子のアメノタリシヒコのことであって、稲目と馬子はキングメーカーだったのではなく、実際にこの時代のキングだったということが分かって来たのですが(^o^)。