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穂高神社と安曇野93 安曇族(海人族)31

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2016.10.1 穂高神社と安曇野93 安曇族(海人族)31

 

記録を見ると、余昆は462年に百済から北九州に渡来し、464年にはもう王位に就いていて、「倭王・武」として中国に朝貢使を送っているのですが、このことに私は少し違和感がありました。

 

余昆がどれほど優れた人物であって、最新の武器を持った東漢氏(やまとのあやうじ)という武人集団(軍隊)を率いて渡来して来たとしても、後方からの迅速な補給や支援の期待できない海の向こうの、かっても分からぬ日本にやってきて、どうしてそんなに短期間で王位に就くことができたのだろう?と。

 

けれど、もし北九州に渡来してきた余昆と、紀元前から北九州にいた海人族とが協力関係にあったのであれば可能だったわけですね(^o^)。海人族は、操船技術に優れた武人集団だったうえ、今でも「海の正倉院」と呼ばれているほどの貿易による大きな富を持ち、天津族の朝廷にも東征前から重臣として入っていたのですから、朝廷内部のことは知りつくしていたでしょうし、崇神天皇の東征にも加わっていたのですから各地の情勢や地理にも詳しかったのでしょうし、

 

東征後の4世紀には崇神天皇から論功行賞として奈良盆地の来目邑を領地として与えられていたのですから、奈良盆地を押さえていたのは海人族の久米氏だったわけですが、余昆(応神天皇)が、紀ノ川を遡って隅田から奈良の忍坂の宮に入っていることや、531年に辛亥の変に勝利して王位に就いた応神の孫の欽明天皇が奈良の磯城で即位し、磯城に宮を置いたことを見ると、応神天皇とその子孫たちは奈良盆地を根拠地としていた海人族の久米氏とは敵対する関係ではなく、親しい(利害が一致する)関係にあったようですし(^o^)

 

でも、462年に渡来したばかりの余昆と海人族がそれほどすぐに親しい協力(同盟?)関係になれたはずはありませんから、余昆が渡来した462年には、すでに百済と海人族との間で話がついていて、すっかり準備が調ったので「王子様のお出まし」となったということだったのかもしれませんね。常識的に考えれば、一国の王子が相手国の事情を何も知らず、なんのあても勝算もないままに来る途中で生まれてしまったほどに出産間近だった妻を伴ってやって来たはずはありませんものね(^o^) 

 

紀元前2800年頃から朝鮮半島や中国から多くの人が渡来してくるようになって日本は縄文時代から弥生時代に移行していったのですから、その頃から頻繁に行き来はあったわけですし、海人族の本拠地に舶来品のオタカラがザクザクあったのを見れば、海人族は紀元前から中国や朝鮮半島とは貿易をしていて日常的に行き来していたようですしね。


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この応神が王座に就いた時の戦いを、『古事記』は三韓征伐から戻ってきた神功皇后と忍熊王(おしくまのみこ)との戦いと騙り、最終的には琵琶湖での戦いで応神側が「神功皇后が戦死した」とウソをついて降伏するふりをして騙まし討ちで勝利し、応神が天皇になったというオハナシに仕立てて記しているのですが、もし、『古事記』が記していることが本当なら、この時神功皇后が連れていた応神天皇は、「宇美」で生まれたばかりの赤ん坊で、天皇になれるような年ではなかったはずだと私は思うのですけれど、『記紀』信奉者の学者さんたちは、赤ん坊が天皇になったとお考えなのでしょうか(^_-)





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