常識的に考えれば、今にも子供が生まれそうになっている妻を、様子も先行きどうなるかも分からないような所に連れて行ったりはしませんよね。祖国で子供を生み、動けるようになってから来るように取り計らうか、行先で落ち着いてから妻子を呼び寄せるかするのが普通だったのではないでしょうか。
余昆(応神天皇)は百済の王子であり、出産の迫った妻を無理に連れて来なければならないような切羽詰った状況だったわけでもなかったのに身重の妻を伴って国を発ったということは、海人族の本拠地である北九州に着けば安心して出産することのできる場所が用意されていたからだったのではないでしょうか(^_-)。
釜山と島原や五島の間は、昭和の初め頃までは手漕ぎの舟で小遣い稼ぎに行き来していたそうですから、そのくらいの距離であれば生まれる前に着けるだろうと考えて出航したけれど、間に合わなくて途中の加唐島で生まれてしまったということなのではないか?と考えていて、『古事記』によく似たオハナシがあったことを思い出しました(^_-)。
『古事記』は歴史を1000年分水増しした部分の登場人物に、同じ名前や似たような名前を使い回したり、同じ出来事やエピソードを繰り返し使ったり、実際の天皇の事績を架空の天皇の事績として記したりしています。
例えば、神武天皇と崇神天皇には同じ「ハツクニシラススメラミコト」の諡号が贈られていますが、神武天皇の紀元前の東征のオハナシとして『記紀』が記しているのは、実際は4世紀の崇神天皇の東征ですし、3世紀の架空の仁徳天皇の事績として記している茨田堤(まむたのつつみ)の築造や、難波の堀江の掘削などの数々の大規模な土木工事は、実際は5世紀の応神天皇の時代に行われたものなのです。
『古事記』が「神武天皇の父として創り出したウガヤフキアエズノミコト」が生まれた時の出生譚は、「天孫・ニニギノミコト」の息子のヒコホホデミノミコト(山幸彦)の子を身籠っていたトヨタマヒメが出産間近になってワダツミの国から日向にやって来たので、出産のための産屋を急いで作り始めたのだけれど間に合わず、産屋の屋根を葺き終えないうちに海辺の洞窟の中で子が生まれてしまったため、その子を「鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)」と名付けたという冗談としか思えないようなオハナシになっています。それもトヨタマヒメの正体はワニで、ワニから神武天皇の父となったニンゲンの子供が生まれたという荒唐無稽なオマケ付きで(^o^)。
私は鵜戸神宮に行ったことがないので、ウガヤフキアエズノミコトが生まれた場所だというという鵜戸神宮の洞窟の写真を探してみました。
鵜戸神宮
↓は『唐津探訪』に載っていた斯麻(後の武寧王)が生まれた加唐島・オビヤ浦の洞窟の写真なのですが、
この写真ではどんな場所なのかよくわからなかったので、分かりそうな写真はないかと探してみたら、加唐島とオビヤ浦と洞窟の写真がありました。この島には、潮に乗って韓国からモノが流れ着くようですから、きっと舟やヒトも流れ着いていたのでしょうね(^o^)。
オビヤ浦
場所も、間に合わなくて海辺の洞窟で子が生まれてしまったという出産の状況もよく似ているようですから、架空のウガヤフキアエズノミコトの出生譚には、余昆の子の斯麻(後の武寧王)が加唐島の洞窟で生まれてしまったエピソードが使われているようです(^_-)。
そういえば、韓国歴史ドラマには主人公が洞窟で子供を生んだり、洞窟で生まれた子が主人公になったりするものが多いような気がしていたのですが、韓国の英雄譚やドラマ作りにはなにかそういうお約束の定型ようなものがあるのでしょうか(^_-)。
ひょっとすると、余昆が日本に向かう途中に加唐島の洞窟で生まれてしまった「斯麻」が、後に百済中興の祖と称えられた「武寧王」になったことが英雄譚の定型の元になっているのかも(^o^)?