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穂高神社と安曇野92 安曇族(海人族)30 志免町

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2016.9.30 穂高神社と安曇野92 安曇族(海人族)30 志免町

 

『風土記』や『古事記』に記されている地名の由来は、「屎をはじいたから波自加(はじか)村」だとか「屎褌(くそばかま)が樟葉になった」だとか、あまり品のよくない語呂合わせの駄洒落なのではないか?と疑惑を感じて始めていた頃、「神功皇后が応神天皇を生んだ所を宇美(うみ)といい、応神天皇のおしめを替えた所を志免(しめ)という」と書かれたものを読んで、「そんなバカな・・・」と思いながら「宇美」や「志免」は本当にあるのかな?どこにあるのだろう?と地図で探したことがありました(^o^)

 

「宇美」も「志免」も本当にありましたが、生んだ場所はともかくとして、1年以上も日に何度でも替えなければならないおしめをいつもそこまで行って替えていたはずはないから、それらはやはり言葉遊びの「故事付け」に違いないと思ったのですが(^_-)、昨夜ふと、古い時代には「おしめ」ではなく「襁褓(むつき)」と言っていたはずだけれど、神功皇后が応神天皇を産んだという200年頃や『古事記』が作られた7~8世紀には「おしめ」という言葉があったのだろうか?と疑問が湧いてきました。

 

そこで「おしめ」と「おむつ」について調べてみたのですが、「おしめ」がいつごろから使われていた言葉なのかは分かりませんでした<(_ _)>。そこで「志免町」を調べてみると、この地名は「隣町の宇美町にある宇美八幡宮の注連縄(しめなわ)が張られた土地であることから、志免の地名となったという説がある。」と記されていました。

 

それでは「応神天皇のおしめ」に由来するという「故事付け」の出所は『古事記』ではないのかな?と『古事記』を確かめてみると、『古事記』には「宇美」の由来は記されていましたが「志免」の由来はなかったので、それなら『風土記』かな?と『筑前国風土記』を調べてみたのですが、やはり「宇美」の由来しか記されていませんでした。いったいこの「故事付け」はどこから出てきたのでしょうね?


ひょっとすると「皇国史観」に迎合して、明治以降に作られたものなので「おしめ」という言葉が使われているのかもしれませんね「皇国史観」教育がされていた時代には、多くの神社でヤマトタケルが祭神に加えられたり、境内に(架空の人物である)ヤマトタケルがここで石に腰かけたという由来を持つ「腰かけ石」が設置されたりしていたようですから(^o^)

 

キンモクセイの香りが少し薄くなってきました。第一回目はそろそろ盛りを過ぎたようです。多い年には3回咲きましたが、今年は何回咲くのかな?

 

遅くに咲き始めた黄色のヒガンバナ(リコリス・オーレア)はまだ咲いていますが、白と赤はもう全部終わってしまいました。


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