2016.9.29 穂高神社と安曇野91 安曇族(海人族)29 間人皇女は海人族?
用明天皇の皇后だった間人皇女は、聖徳太子(=アメノタリシヒコ=馬子)と来目皇子の母だとも記されていますが、もしそれが事実なのであれば、アメノタリシヒコと来目皇子は同腹の兄弟だったということになりますから、この人は百済の王族ではなく海人族の久米氏の出身だったのかもしれません。
間人皇女が久米氏の出身であったなら、アメノタリシヒコが日本初の仏教寺院を建立して間もない時期に久米氏の本拠地に久米寺が建立されたとしても不自然ではありませんし、↓では、馬子の弟の境部摩理勢とは聖徳太子の弟とされている来目皇子のことで、「馬子が亡くなった後、馬子の息子の蝦夷と弟の境部摩理勢の間で争いが起きて摩理勢が殺された」という事件は、アメノタリシヒコ(=馬子)の息子の倉麻呂(=蝦夷)と異母弟の来目皇子の王位争いだったのではないかと考えたので、その争いの時に摩理勢を殺したのが久米氏の一族の「来目物部伊区比」だということが腑に落ちなかったのですが、アメノタリシヒコと来目皇子が同腹の兄弟で、摩理勢が異母兄弟であったなら、久米氏が一族の血を引く蝦夷に加勢したのは当然だということになりますね。
学者さんたちは都塚古墳を稲目の墓だと考えているようですが、馬子の父の稲目は架空の人物ですし、アメノタリシヒコの父の用明天皇はアメノタリシヒコより前に亡くなっているのですから、その墓が八角形墳に造られたはずはありません。現在宮内庁が欽明天皇陵だとしている前方後円墳の梅山古墳が用明天皇の墓のようですから、都塚古墳は蘇我氏の実力者だったという摩理勢の墓だろうと私は考えています。
都塚古墳
アメノタリシヒコの生母の間人皇后(鬼前王后)が海人族の久米氏の出身であったなら、アメノタリシヒコの孫の大海人皇子(天武天皇)が海人族の宗像の徳善の娘の尼子娘(高市皇子の母)を妻にしていたことや、久米氏の祖廟である牟佐坐神社のことが天武天皇紀に記されているわけもおおいに納得できるのですが(^o^)。
これはまだ状況からの推理で確証があるわけではありませんが、もしそうであれば、用明天皇の皇后になった間人皇女は天津族(百済)の王族出身ではなかったため、その出自を伏せるために作られたのが「蘇我稲目の娘の小姉君の子である」という系譜だったのかもしれません。
応神天皇の母として創り出された「神功皇后」は、福岡市宇美町で応神天皇を産んだとされていますが、福岡市は、紀元前5世紀頃に呉から渡来していた海人族の本拠地だったのですから、余昆(のちの応神天皇)は、渡来した頃から海人族とは深い関係を持っていたのかもしれませんね。
以前「古代の地形から『記紀』の謎を解く」をお読みになった方から、福岡には神功皇后に因む地名がたくさんあるのだから神功皇后は実在したのではないでしょうか?」というお話があったのですが、応神天皇は宇美町で生まれたのではなく、福岡にやって来たのは22歳の時で、すでに妻もいて、のちに百済中興の祖・武寧王となった「斯麻」という子も産まれていた立派な成人男性だったのです(^o^)。
福岡の神功皇后に因む地名は、日向や出雲と同じように『古事記』に合わせて「故事付け」されたもので、「神話に因んだものがたくさんあり過ぎる」ということ自体が、それらが意図的に作られたものであるということを示しているようです(^_-)。
三韓征伐から戻った神功皇后が応神天皇を産んだからそこを「宇美」、おしめを替えたからそこを「志免」というなどというのは、屎(くそ)をはじいたからそこを「波自加(はじか)村」というなどと同じ語呂合わせの故事付けであり、作り話なのです(^o^)。そもそも200年代に日本が朝鮮半島を征服していたという事実はないのですし。
赤子が生まれた場所が「うみ」で、おしめを替えた場所が「しめ」なら、全国どこでも「宇美」と「志免」だらけではありませんか(^o^)。私はこれを読んだ時、「ここでおしめを替えたから志免というのだ」などという故事付けは、自分でおしめ替えなどしたことのない男性の発想だろうと思ったのですが、男性の学者さんたちは「なるほど、そうなのか!」と納得されたようですね(^_-)。