2016.9.20 穂高神社と安曇野83 安曇族(海人族)21 アメノタリシヒコ
502年の応神天皇の朝貢の後、分裂状態になっていた中国に朝貢使は送られていなかったようですが、その中国がおよそ300年ぶりに隋によって581年に再統一されると、アメノタリシヒコは「大王(おおきみ)」として600年に隋の文帝に使者を送っています。
この600年に日本の大王だったのは、『日本書紀』が記している「推古天皇(592~628)」ではなく、アメノタリシヒコ(=聖徳太子=蘇我馬子 585~622)だったのですが、『隋書』「東夷伝」には「大王」ではなく、「阿輩鶏彌(おおきみ)」と表記されていますから、この時は東夷の国として相手にされなかったのか(?)文帝はアメノタリシヒコを「倭王」とも「大王」とも認めなかったようです<(_ _)>。
その後607年にアメノタリシヒコは、今度は小野妹子を団長として、「大王」ではなく「日出づる処の天子」と記した国書を携えた使節団を隋の煬帝に送っているのですが、これはアメノタリシヒコがそれまでの中国に朝貢して皇帝に任命してもらう属国の倭王としてではなく、独立国の天子として隋との対等な外交や交易を目指したということだったのではないでしょうか。これに対して煬帝は裴世清を団長とする答礼使節団を送ってきたのですが、彼らが謁見したのは推古天皇ではなく、アメノタリシヒコとその太子だったのです。
けれど、その対等な関係を求める試みは、その志を引き継いでいた石川麻呂(入鹿)が乙巳の変(大化の改新と騙られている)のクーデターで守旧派の中大兄に倒されて中断してしまい、その後、中大兄が百済を援助することで唐と敵対し、白村江で唐に大敗して敗戦国となってしまったため、唐からの戦後補償の要求によって665年以降は「送唐客使」と称して朝貢使を毎年送らなければならなくなったようです<(__)>。
『日本書紀』は郭務悰(かくむそう)が、(戦後補償の要求ではなく)表函と献物を持ってやってきたと記しているようですが、常識的に考えるなら、戦勝国が敗戦国に自分から貢物など持ってやって来るはずがありませんよね。これもウソでしょう。
『日本書紀』といえば、巻22に「秋七月戊申朔庚戌大禮小野臣妹子遣於大唐以鞍作福利為通事」とあり、これは「推古天皇15年(607年)、鞍作福利を通事として小野妹子を大唐に遣した」と解釈されているようですが、607年の中国は唐ではなく隋だったのですし、古代の年号は全て干支で記されていて推古天皇の15年と書いてあるわけではないのですよね(^_-)。
推古天皇は架空の人物なのに年号に「推古○年」があるのはおかしいな?と思ったのですが、これは『記紀』を信奉する学者さんたちが干支を西暦に換算し、『日本書紀』では592~628年は推古天皇の時代だったのだから607年は推古天皇15年であると解釈したうえで、『日本書紀』には「大唐」とあるけれど、607年の中国は唐ではなく隋だったのだから、行ったのは唐ではなく隋だったと勝手に訂正して「推古天皇15年に遣隋使を送った」と解釈したということのようです。つまり、『日本書紀』の推古天皇の部分は信じて、「大唐」の部分は信じないという恣意的な解釈をしているのです。
雄略天皇が3世紀に滅んでしまっていた呉に5世紀に使者を送ったということにしても、推古天皇が607年にまだ出来てもいない唐に使者を送ったということにしても、『記紀』は矛盾だらけなのにどうして学者さんたちはこんなメチャクチャなものを信じることができるのだろうと疑問に思っていたのですが、以前その答えを見つけていたことを思い出しました(^o^)。
昔(?)、法隆寺は再建か非再建かの大論争があったそうで、その時の再建論派の論拠は文献であり、喜田貞吉は「文献を否定しては歴史学が成立しない」と主張したそうですから、「歴史学」とは文献を鵜呑みにして現実を文献に合うように解釈するものだということだったのですね。
私が「文献」の矛盾に疑問を持ったり、歴史学者さんたちのつじつま合わせに納得できなかったりしたのは、私が「歴史学」を学んだことがなく、「歴史学」とはそういうものだということを知らなかったからだということのようです(^_-)。