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pcat2sさまのコメントへのお返事

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2015.8.23 pcat2sさまのコメントへのお返事
 
「いろいろお世話になります。こちらは余り進んでいませんが、飯田市の隣に阿智村があり、阿知使主との関係も気になるところで、科野と百済王とは何か縁があったのかなとも考えています。それと、河内長野市に本多町があり、善光との関係を少し調べてみましたが、これもよくわかりませんでした。」
 
 
pcat2sさまのコメントはいつも本当に刺激的で、謎解きのヒントがいっぱいです\(^o^)/。こちらこそいつもたくさんのヒントをいただきありがとうございます。
 
私も地図で阿智村を見て、阿知使主との関係を考えていました(^o^)。地名は人の移動と大きな関係がありますから、科野と百済の王族との関係は大ありのようです。
 
河内長野市に本多町があり・・・
 
pcat2sさまのこの疑問は、期せずして私の「余善光はなぜ本田善光と記されているのだろう?」という疑問への、私が探していた答えそのものでした\(^o^)/。
 
この当時は「姓(せい)」というものが無く、人は居住地や支配地の地名や職種名を冠して「○○の誰々」と呼ばれていたのですから、「本田」は地名で、本田善光とは「本田の善光」なのではないか?と考えたのですが、その「ホンダ」が何処のことなのか分からなかったのです。この「ホンダ」は河内長野市の本多町だったのですね!


ちなみに余(扶余・プヨ)も姓ではなく、強いていえば国姓であって「扶余の善光」であり、扶余の支配者の一族であるという出自を表しているものだろうと思います。
 
河内長野市の本多町は石川流域にあり、石川流域は462年に渡来してきた昆支(余昆・後の応神天皇)がヤマト(遠つ飛鳥)へ入る前に本拠地とした所(近つ飛鳥)なのです。
 
地図を見ると本多町は、近鉄長野線・南海高野線の河内長野駅や河内長野市役所に近い河内長野市の中心部のようですし、その少し下流が聖徳太子(=アメノタリシヒコ=馬子)にゆかりの太子町や応神天皇(余昆・昆支)を祀る飛鳥戸(あすかべ)神社のある「近つ飛鳥」であり、少し上流が倉麻呂(=蝦夷)の本拠地だった高向ですから、631年に百済からやって来た義慈王の王子の余善光は、まず応神系王族の本拠地だった河内長野の本多に身を寄せたのでしょう。
 
昆支を祀る近つ飛鳥の飛鳥戸(あすかべ)神社
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倉麻呂(蝦夷)の本名は分かりませんが、別名は「高向王(たこうのおう)」であり、高向王は宝皇女(『日本書記』では舒明天皇の妻で皇極天皇とされている)の最初の夫で、天武天皇(=大海人皇子=漢皇子)はこの高向王・倉麻呂と宝皇女の間の子で石川麻呂(入鹿)の異母兄弟だったのです(^o^)。この説明は「古代の地形から『記紀』の謎を解く」の第3章の7「天武は天智の弟ではなかった」をご参照ください。 アマゾンへ

石川麻呂も本名は分かりませんが、この「いしかわのまろ」という別名はそのものズバリ石川流域を本拠地とする麻呂(男)という意味だろうと思います(^o^)
 
河内長野市高向の高向神社
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