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穂高神社と安曇野81 安曇族(海人族)19 身狭村主青(むさのすぐりあお)2

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2016.9.17 穂高神社と安曇野81 安曇族(海人族)19 身狭村主青(むさのすぐりあお)2

 

『新撰姓字録』が「呉の孫権の子孫」だと記したこの「身狭村主青」とは、雄略期に三国時代の呉から渡来してきた孫権の子孫ではなく、紀元前に春秋戦国時代の呉から渡来していた海人族の久米氏の一族だったのではないでしょうか(^o^)

 

古代の「氏(うじ)の名」とは、現代の「姓(せい)」と同じではなく支配地の地名であって、支配地が変ると氏の名も変わっていたのです。例えば出自は天皇家で、臣籍降下したことを表すカバネである「源」を名乗っていた「源の義光」の長子の義業(よしなり)は常陸の久慈郡佐竹郷の支配者となって「佐竹の義業」と名乗り、三男の義清は武田郷の支配者となって「武田の義清」と名乗っていました。

 

そして、佐竹氏の嫡流の子孫は佐竹郷から領地が変わっても、出羽国に移封されてしまってからも本貫の地名である佐竹を名乗り、義清とその嫡流の子孫は、常陸から甲斐に配流になってからも本貫の地名である武田を名乗り続けて「甲斐武田氏」となっていますが、嫡流以外の子孫たちは、逸見・安田・平井・河内・・・などそれぞれの支配地の地名を「氏の名」として名乗っています。このようにその祖は源頼義であって出自を示す「本姓」はみな「源」なのですが、実の親子兄弟であっても支配地によって「氏の名」はそれぞれ違っていたのです。

 

武田氏について詳しくは勝田市教育委員会発行の「甲斐武田氏発祥の地 常陸武田の里」をご参照ください。

 
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江戸時代に改暦という大事業を成し遂げた渋川春海の名前の変遷も「氏の名」が支配地の地名であったことを示していました。

 

渋川春海の改暦については

 

同じように、紀元前に呉から志賀島にやってきて北九州に勢力を広げていた海人族のうち、宗像を領地とした者は「宗像の○○」と「宗像」を氏の名にし、安曇を領地とした者は「安曇の××」と「安曇」を氏の名にし、東征で来目邑を領地として得た者は「来目(久米)の△△」と「来目(久米)」を氏の名にしていたと思われますから、「身狭氏」とは橿原市一帯を領地としていた海人族の久米氏のうちの牟佐村を領地とした人だったのではないでしょうか(^o^)

 

そして、「身狭村主青」のことが天武天皇紀に記されているのは、天武天皇の妻の一人であり、第一皇子の高市皇子を生んだ尼子姫がこの海人族の長であった「宗像の徳善」の娘だったからだろうと思います(^o^)

 

先日erasusさまから「臥薪嘗胆の呉(夫差)(勾践)と、三国志の孫氏の呉について、先生のように笑い飛ばす「お方」は、わたしの人生で知りませんね。物凄い!!」というコメントを戴いてしまったのですが(^o^)

 

私は笑い飛ばしたわけではなく、「呉」という国が二つあったということをこの時まで知らなかったのです<(_ _)>。平安時代に『新撰姓字録』に「身狭村主青は呉の孫権の子孫である」と書いた人もそのことを知らず、「呉の王族の子孫なのであれば、すなわち魏・呉・蜀の呉の孫権の子孫に違いない」と思い込んで「春秋戦国時代の呉の王族の子孫の身狭氏」を「三国時代の呉の王・孫権の子孫」と書いてしまったのかもしれませんね(^_-)

 

いずれにしても海人族の久米氏の領地に祖廟を持っていた「村主 青」は孫権の子孫ではないと私は思います。

 

この由緒来歴には、「(安康天皇の)当時の祭神は生雷神(即ち雷公)で江戸初期まで榊原天神と称されていた」と記されていますが、この神社に祀られていた祭神が青とは何の関係もない「生雷神(即ち雷公)」だったはずはありませんから、祀られていたのは久米氏の始祖の大久米命か、または身狭氏の始祖だったのではないでしょうか(^o^)


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