2016.9.16 穂高神社と安曇野80 安曇族(海人族)18 身狭村主青(むさのすぐりあお)
牟佐坐神社には祀られていたのは誰なのかを知るために行ってみたのですが、ここには何か分かりそうなものは柿本人麻呂の歌碑の他には↓の由緒しかなく、その内容は事前に調べたことと全く同じでした。牟佐坐神社についての記事を書いた方々はこれをそのままそっくり書いただけだったようです<(_ _)>。
牟佐坐神社の由緒
見えにくいのですが、「由緒沿革 日本書紀天武天皇紀 安康天皇の御代 牟佐村 現見瀬町 村主 青の経営であった」と書かれています。すると、現・見瀬町は4~5世紀には牟佐村で「村主 青」が牟佐村の支配者であり、この神社は「青」の祖廟だったということのようですが、このことが天武天皇紀に記されているということは、7世紀の天武天皇と「5世紀の村主青」の子孫の間には何か特筆するような深い関係があったということなのでしょうね。
この「村主 青」とは雄略紀にある「身狭村主青」のことで、雄略期に渡来したとされ、この「身狭」は「牟佐」で『新撰姓字録』には呉の孫権の子孫と記されているのだそうですが・・・・
村主(すぐり)は、古代日本の姓(かばね)の一つであり、牟佐・身狭は地名ですから、「身狭村主青」とは、「身狭村(牟佐村・現見瀬町)の長(支配者)の青」ということでしょう。
すると、4~5世紀にこの辺りを支配していたのは、三国時代の呉の孫権の子孫の身狭村主青だったということになるようですが、それは変ですよね。この一帯は崇神の即位直後の5世紀初めに海人族の久米氏に与えられていたのですから、456~479年の雄略期に渡来して来た「呉の孫権の子孫」がいきなりこの地域の支配者になれたはずはありません。ここは海人族の久米氏が征服戦争(東征)で命懸けで戦った論功行賞として得た領地だったのですから。
『日本書紀』の「雄略紀」には、雄略天皇(456~479)の8年と12年に身狭村主青を呉に遣わし、14年には、その身狭村主青らが呉の使者と漢織・呉織・兄媛・弟媛をつれて住吉津に帰国したと記されているそうですが、それは絶対にあり得ません。なぜなら、三国時代の呉は280年に滅びてしまっているのですから。つまりこの記事は真っ赤なウソなのです(^o^)。
『記紀』を信奉している学者さんたちは、雄略天皇が200年近くも前になくなってしまっていた国に使者を送ったというこのあり得ない記事のつじつまをいったいどうやって合わせているのでしょうね???
応神紀にも応神天皇の37年に「阿知使主・都加使主を呉に遣わして縫工女を求めた。呉王は求めに応じ、工女の兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)・呉織(くれはとり)・穴織(あなはとり)の、四人の婦女を与えた」という同じようなオハナシが記されているようですが、『日本書紀』は応神天皇の在位を270~310年だとしていますから、その頃なら三国時代の呉はまだあったのでしょうけれど、「応神天皇の在位は270~310年」というのもウソで、応神天皇の実際の在位は464~506年なのですよね(^_-)。
応神天皇の在位の時期については「古代の地形から『記紀』の謎を解く」の第6章、および巻末の「古代の中国・朝鮮半島と倭国の関係」の年表をご参照ください。
やはり『記紀』は水増しした1000年分を埋めるために、同じオハナシを登場人物の名前を変えてあちこちで使い回していたようです(^o^)。
つまりこれらのオハナシは、そもそもが作り話であってウソなのですから、学者さんたちのつじつまを合わせるための努力は全くのムダであって、次々に珍説を作り出しては謎を増やしているだけなのですよね<(_ _)>。