2016.9.15 穂高神社と安曇野79 安曇族(海人族)17 牟佐坐(むさにいます)神社
去年の春、飛鳥坐神社と牟佐坐神社の前で由緒を読んでいた時にはさっぱり意味が分からなかったのですが<(_ _)>、今になってやっと歴史として読み解けるようになってきました\(^o^)/。
牟佐坐神社のある丘の麓には柿本朝臣人麻呂の歌碑があったのですが、その歌の中に「軽の市に・・・」という言葉が入っていましたから、「軽」は市の立つ賑やかな場所だったようです(^o^)。
柿本朝臣人麻呂の歌碑
そこで、その市が立った場所はどこだったのだろう?と「軽の市」を調べてみると、「軽は奈良県橿原 市大軽 町 付近の古地名で、古代には交通の要地で軽の市 があった」のだそうです。関東育ちの私は、奈良の現代の地名にも古代の地名にも全く知識もなじみも無かったので「軽」がどこのことなのか分からなかったのですが、古代の「軽」がこの辺りのことだということは歴史好きの方にとっては常識だったようですね(^_-)。
橿原市の現在の「丈六交差点」のあたりが、飛鳥時代には南北を貫く下ツ道と東西に走る山田道が交わる「軽の巷(かるのちまた)」と呼ばれる交通の要衝だったとのことなので「丈六交差点」を地図で探してみたら、この交差点は橿原神宮駅のすぐ東にあったのですが、南北方向の道は「中街道」となっていました。
そこで「中街道」を調べてみると、この名前は近世以降のもので古代には「下ツ道」と呼ばれていたのだそうです。それではこの交差点から東へ向かう124号線が古代の「山田道」だったのですね。奈良の地名を全く知らないうえ地理音痴の私には、出てくる地名や道がどこにあるのかを調べるだけでも一仕事なのです(T_T)。そういえばこの時、橿原考古学博物館には行ったのですが、私は橿原神宮駅にも橿原神宮にもまだ行ったことがありません(^_^.)。
でも、学者さんや歴史愛好家の皆さんが持っている知識や常識を私が持ち合わせていなかったからこそ、「理論負荷性」のフィルターを通したのでは見えないものが、私には見えたというプラスの面もあったのですよね(^_-)。
例えば、「交通の要衝にあったという軽の巷」で、出雲の「十字街(じゅうじのちまた)」のことを思い出したのですが、出雲へ出かけた時、私は「十字街は市が立つ場所だったのだから、交通の要衝で多くの人が往来する所だったのだろう」と考えました。ところが行ってみたら、この「十字街」とされている場所は人っ子一人いない水田の中にあったのです。
そのような人家も人通りもなく、今でも水田になっているような低湿地に市など立ったはずは無いから、ここが「十字街」だったはずはないと私は思ったのですが、アカデミックな学者さんたちの常識は違うのですね(^_-)。
十字街だとされていたのは、↓のような田んぼの中で、信じられないことに、この田んぼの中には神話の「意宇の杜」の遺跡まであったのですよ(^o^)。
私は、普通の感覚で「国引き」など実際にはあり得ないと思ったのですが、『記紀』信奉者の学者さんたちのお書きになったものはもとより、出土物などを展示し、考古学的な検証や考察をしているはずの博物館の説明を見ても、実際に行った方々の旅行記や考察を読んでみても、そのことに疑問を持った人はいないようです。
どんなに訳の分からない非論理的なことが書いてあっても、文献にあることや学者さんたちの書いたことには疑問を持つことはないようで、それらは全てゆるぎない事実であるという「理論負荷性」のフィルターを通してしかものを見ていない(見ることができない)ようです<(_ _)>。
でも、「軽の市」があったという「軽の巷」も交通の要衝にあったように、古今東西「市が立つ場所」というのは交通の要衝の人の集まりやすい所だったはずで、農作業の人以外には誰も通らないような所に市が立ったはずはないと私は思います(^_-)。