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穂高神社と安曇野76 安曇族(海人族)14 久米御県神社

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2016.9.12 穂高神社と安曇野76 安曇族(海人族)14 久米御県神社

 

現在の久米町は畝傍山の南の狭い範囲のようですが、これは東征(国盗り)という大事業で手柄を立てた大久米命が論功行賞として賜った土地としては小さすぎるのではないでしょうか(^o^)

 

『日本書紀』には「畝傍山の西の」と書いてあるようですし、現在もまだ水田になっているような所は4世紀にはまだ海か、汽水湖か、よくても湿地だったと思われますから、この時久米氏が賜った「来目邑」とは、現在の久米町の範囲ではなく、西側や見瀬町・大軽町も含んだこの畝傍山の周辺一帯(橿原市全域?)だったのではないでしょうか。

 

531年にクーデター「辛亥の変」で崇神系の継体・安閑・宣化を倒した応神系の欽明天皇が、磯城で即位してヤマトへ入るまで、天津族の朝廷(宮)は河内にあって、王族のお墓も古市古墳群・百舌鳥古墳群など河内に造られていたのですから、生駒山の東側の奈良盆地には天津族の王族は住んでいなかったのですし、東征直後の奈良盆地には、まだ纏向に都を置いていた大国主の勢力が多く残っていて、安全でも平和でもなかったはずですから、大久米命にこの地が与えられて久米の武人たちがここに居住することになったのは、その平定(残存勢力一掃)のためだったのかもしれません。

 

『古事記』はこの時期の奈良盆地が不穏であったことを、「崇神の御世には疫病や反乱が続いて人民は死に絶えんばかりであった」と記し、その理由を「大物主大神が天皇の夢枕に立って自分の祟りであると告げた」と記しています。トミノナガスネヒコ(大国主)が殺された後も、生駒山の東側ではあちこちで激しい戦いが続いていて、とても天津族の王族が安心して暮らせるような場所ではなかったのです。

 

高句麗が唐に滅ぼされた後、高句麗のテ・ジョヨン(大祚栄)は30年間も唐から国を取り戻すための戦いを続けていたようですが、一つの国(支配体制)を滅ぼすということはそれほどのことであって、学者さんたちが信じているような「私の孫に譲りなさい」「分かりました 差し上げましょう」などというような「国譲り」など絶対にあり得なかったのです。

 

久米寺の南には久米御県神社があるのでこちらを調べてみると、久米御県神社は延喜式神名帳にある式内社で、祭神は大来目命(天久米命・天櫛根大久米命)だそうですから、この神社は崇神の東征軍としてヤマトへやって来た久米氏が自分の領地となった来目邑に造った祖廟でしょう。神社とは、子孫が先祖を祀るために造った「祖廟」なのです。

 

高麗神社の祭神は「高句麗が滅亡した時に日本に亡命した高句麗の王族・若光」であり、代々若光を祀ってきたのはその子孫であって、現在の宮司さんは若光の60代の孫にあたる高麗文康氏です。その先祖の歴史と系図は子孫に伝えられており、高麗神社の祭神である若光が日本に来ることになったいきさつは、文康氏が「陽光の剣」という小説にして語っておられます。

 

高麗王(こまのこにきし)廟

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この「王」は高句麗の王族であることを示すカバネであって、高句麗の最後の王であった宝蔵王が日本に逃げてきてしまったわけでも、王様が何人もいたわけでもないのです(^o^)。



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