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穂高神社と安曇野75 安曇族(海人族)13 久米寺と来目皇子

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2016.9.10 穂高神社と安曇野75 安曇族(海人族)13 久米寺と来目皇子

 

もしアメノタリシヒコの弟が本当に「来目皇子」という名前だったのであれば、その母は来目邑の久米氏の出身だったのかもしれません。皇子の名前は来目皇子(くめみこ)なのですし、もし久米寺の創建がその頃なのであれば、仏教が伝来してまだ間がない頃で、大王・アメノタリシヒコ(馬子)が日本で初めての本格的仏教寺院である法興寺(飛鳥寺)を造ったばかりだったのですから、その頃に天津族の王族ではなく、海人族であり家臣であった久米氏が、自分の領地の来目邑に氏寺を造ることなどできたはずはないでしょうから。

 

久米寺の境内には古い塔の礎石があり、境内から出土した瓦の様式から創建は奈良時代前期にさかのぼると思われるそうですから、確かに久米寺の創建は古いようです。けれど、もし本当に来目皇子の創建なのであれば、瓦は奈良時代前期ではなく、飛鳥時代の7世紀初め頃のもののはずですよね。聖徳太子が亡くなったのは622年とされているのですから、その弟が奈良時代前期まで生きていて寺院を造ったはずはないと私は思うのですが(^_-)、出土した瓦は7世紀初めまで遡ることはできるのでしょうか?

 

明日香にも来目皇子の創建とされる奥山久米寺跡があって、飛鳥時代の蓮華文様の鬼瓦が出土しているそうですが、その伽藍配置は塔・金堂が一列に並ぶ四天王寺式だったそうですから、アメノタリシヒコやその弟の時代のものではないようです。つまり、来目皇子が創建したものではないわけですね。

 

飛鳥寺復元図

イメージ 1

 

四天王寺と飛鳥寺の伽藍配置

イメージ 2

 

久米町の久米寺の伽藍配置が分からないので、この寺の創建が来目皇子の頃なのかどうかは分かりませんが、蘇我馬子と騙られたアメノタリシヒコには、622年にアメノタリシヒコが亡くなった後、息子の蝦夷(倉麻呂)と王位を争った蘇我摩理勢(そがのまりせ)とされている弟がいたようですから、この「馬子の弟の摩理勢」が「聖徳太子の弟の来目皇子」なのかもしれません。


↑の考察をしていた2015.4.22の時点ではまだ、「585に即位して何もせずに587年に死んでしまったとされている用明天皇」は聖徳太子の父として創られた架空の天皇なのではないかと考えていたのですが、6月になって用明天皇は571585年に在位した実在の天皇であり、アメノタリシヒコは欽明天皇の子ではなく孫で、用明天皇の息子であったことが分かってきました。

 

その用明天皇の子で馬子の弟だった摩理勢は、軽の境部に居住していたため蘇我境部臣摩理勢と呼ばれていたのだそうなので、それはどの辺りのことなのだろう?と考えていて、岡寺駅の前に「孝元天皇の軽の境宮の伝承地」の碑があったことを思い出しました(^o^)

 

岡寺駅は現・見瀬町にあるのですが、見瀬町の隣は大軽町となっていて「軽寺跡」がありますから、古代の軽の境部とは現在の見瀬町から大軽町の辺りのことのようですが、この見瀬町・大軽町は久米町の東に隣接していますから、蘇我境部臣摩理勢と来目邑を領地としていた久米氏には深い関係がありそうですね(^o^)


線路の下〈西〉側が久米町で、上(東)側が見瀬町、見瀬町の東が大軽町で、「軽寺跡」があります。


イメージ 3

久米氏は東征以前の九州王朝時代から天津族の朝廷の中に重臣として入っていたのですし、東征時の働きによって飛鳥の来目邑を賜っていたのですから、一族の娘を天皇の後宮に送り込んでいた可能性は高いと思います。「聖徳太子の弟の来目皇子」が軽の境部に居住していた「馬子(アメノタリシヒコ)の弟の蘇我境部臣摩理勢」のことである可能性は高いのではないでしょうか(^_-)
 

でもこの摩理勢が来目皇子だったとすると、摩理勢と蝦夷の王位争いの時に摩理勢を殺したのが「来目物部伊区比」つまり来目の武人だったと記されているのが気になるのですが、ここにも何か騙りがあるのかもしれません<(_ _)>。。



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