2016.8.31 穂高神社と安曇野65 安曇族(海人族)3
『穂高神社と安曇族』によれば、海人族の安曇氏や宗像氏の先祖は、273年頃にはもう海人を統率する宰(みこともち)として天津族(神武天皇)が大宰府に開いた王朝の内部に入っていたようですが、『日本書紀』には、「17代履中天皇元年(401年)に安曇連浜子が住吉仲皇子の反乱に加担して罰せられ、眼の縁に入れ墨をされた」と記されているのだそうです。
これを「安曇目」と言うそうで、この時浜子に従った野島の漁師たちも倭の屯倉で労働に服させられることになったと記されており、淡路島の野島にいた「野島の海人」と呼ばれる海人族集団がそれで、彼等は安曇族であったと考えられているのだそうです。
ここまでに履中天皇は架空の天皇であることが分かっているのですが、その架空の天皇の時代の住吉仲皇子の反乱って何だろう?住吉仲皇子って誰のことなのだろうと調べてみたら、Wikipedia によると『日本書紀』に基づく関係系図では
16代仁徳天皇―大兄去来穂別尊(17代履中天皇)
|-住吉仲皇子
|-瑞歯別尊(18反正天皇)
|―雄朝津間稚子宿禰尊(19代允恭天皇)
となっていて、住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)は仁徳天皇の次男ということになっているようなのですが、仁徳天皇も履中天皇も反正天皇も允恭天皇も全部水増し部分の空白を埋めるために創られた架空の天皇なのですよね。
この系図は『日本書紀』に基づくとされていますが、『日本書紀』では16代天皇は応神天皇になっているはずです。素知らぬ顔で「神功皇后」を削除した後の系図を『日本書紀』の系図として使っているようですが、この「系図」なるものがどれほどご都合主義のいいかげんなものかがわかりますよね<(_ _)>。
『日本書紀』では、崇神天皇の在位は紀元前97~30年、仁徳天皇の在位は313~399年とされていますが、270年頃にはまだ北九州で邪馬台国連合と戦っていた天津族が紀元前に大和で天皇になっていたはずはありませんし、中国の皇帝が外臣と認めれば「伊都国の王」や「親魏倭王」のように「倭の王」に任命されていたのであって、天皇という言葉さえこの時代にはまだ無かったのです。
この時代の、倭国の朝貢の記録は中国の記録に残されているのですが、413~502年の間に中国に朝貢使を送って皇帝から倭王に任命されたのは「讃・珍・済・興・武」の5人で、266年の壱与の朝貢の後、413年まで朝貢使を送った王は一人もいないのです。
このうち、413年に朝貢したものの倭王とは認められなかったのが、『記紀』がB.C97~30年に在位したとしている崇神であり、421年に朝貢して「倭王・讃」と認められたのが崇神の息子で『記紀』がB.C29~70年に在位したとしている垂仁、478・479・502年に朝貢した「倭王・武」は『記紀』が270~310年に在位したとしている応神なのですが、この推理は「古代の地形から『記紀』の謎を解く」の第6章の「倭の五王を推理する」をご参照ください。
この辺りはウソと作り話と架空の人物だらけなので、アカデミックな学者さんたちは、どうやっても『日本書紀』が記している天皇と中国の記録にある倭王の名と年代を一致させることができないため「謎」になっているわけなのですが(^o^)、天皇一蘭によると、応神、仁徳、履中が讃、反正が珍、允恭が済、安康が興、雄略が武に比定されているようです。でも『日本書紀』は、応神(270~310)も仁徳(313~399)も履中(400~405)もみな413年より前に在位した天皇だとしているのですけれどね~。例によって「・・・と考えてよい」ということでしょうか(^o^)。
ところで、垂仁天皇はB.C29~70年の在位となっていて99年も在位していたことになっているようですが、学者さんたちはそのことに何の疑問も感じないようですね。
また、履中―反正―允恭は兄弟間の継承になっていますが、天皇の直系の皇子が皇位を継承するというのが天皇制の大原則だったのでは?この兄弟間継承が事実であるなら、何もしなくても長男の次に順番が回って来るはずの次男の住吉仲皇子はどうして反乱など起こしたのでしょう?ウソや作り話にはどうしても矛盾がでてしまうのですが、その作り話を信奉している学者さんや歴史研究家の皆さんはどんな不自然な記述にも全く疑問を持つことはないようですね<(_ _)>。