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穂高神社と安曇野64 安曇族(海人族)2

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2016.8.30 穂高神社と安曇野64 安曇族(海人族)2

 

戦後GHQが教科書から神功皇后を削除したため、私は神功皇后を教えられなかったわけですが、考えてみると神武天皇も紀元節も教えられていないのですよね。紀元節は1948年(昭和23年)に占領軍 (GHQ)の意向で廃止されたそうですから、その時神武天皇も削除されていたのでしょうか。神功皇后と同じくらい実在を疑われていたようですから(^_-)

 

でも、私は「神武天皇」という諡号を贈られた人は3世紀後半から4世紀始めに実在していたのではないかと考えています。神武天皇がアマテラスの子孫だということや、東征をして紀元前660年に橿原で即位したということはウソだけれど、270年に北九州の邪馬台国連合を滅ぼして九州全域を制圧し、太宰府に朝廷を開いた狗奴国の王が天津族の王朝の始祖として「神」の文字を入れた諡号を贈られたのではないかと考えたのですが、この推理は「古代の地形から「記紀』の謎を解く」の第3章の「神武の東征と九州統一王朝」にあります。

 

この時は中国の記録に残る狗奴国と邪馬台国連合が266年以降中国の記録から消えてしまい、代わって九州から関東までを制圧した強力な政権が突然現われて413年に「倭王・讃」を名乗って朝貢していることなどからの推理だったのですが、その後、太宰府には朝廷があったことをうかがわせる地名や字名が実際に残っていたことが分かりました。

 

そして、本居宣長が江戸時代になって「高天原は天にあったのだ」と言い出すまでは、高天原とは御所市の「高天」のことだと考えられていたことを知り、

 

まさか?と思いながら、どんな所なのかと興味津々で行ってみたところ、そこには最高社格を有し「高天彦神」を祀っているという高天彦神社があって、祭神の高天彦神は高見産霊神の別名だと書いてありました。高見産霊神とは、皇祖神ではありませんか!それはここに祖廟を造って皇祖神の高見産霊神を祀ったのは天津族であり、天津族は確かにここにいたということなのです(^o^)

 

史跡「高天原」

イメージ 1

 

高天彦神社

イメージ 2

 
イメージ 3


そしてここには、ここに天孫が降臨したという「天孫降臨の碑」があったのですが、天孫ニニギは「高天原から降臨してきた」はずなのに、「高天原降臨した」というのは変ですよね(^_-)。『古事記』にはいろいろとつじつまが合わない所があるのですが、アマテラスもニニギも架空の人物で、「神話」は『古事記』の創作だからなのでしょうね(^o^)

 

実際に東征をしたのは神武天皇ではなく4世紀後半の崇神天皇ですから、この地にやって来て祖廟を造ったのは崇神天皇でしょう。それではここに降臨した天孫とは崇神天皇のことのようですが、天孫とされているということは、崇神天皇は、皇祖・高見産霊神(高木神・大宰府に朝廷を開いた神武天皇)の孫だったのかもしれません(^o^)

 

南九州にあった狗奴国を九州統一王朝に発展させたのが3世紀後半~4世紀前半頃の高木神(神武天皇)で、ヤマトの大国主を倒して河内王朝を開いたのが孫の4世紀後半の崇神天皇であり、三代がかりでの征服事業だったということでしょうか(^o^)




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