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穂高神社と安曇野58 倭国大乱

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2016.8.22 穂高神社と安曇野58 倭国大乱

 

中国の記録によれば、倭国では男王の時代が7080年続いた後、1世紀の中頃に56年に渡る内乱が起き、後漢の桓帝と霊帝の間(146年~189年)には大乱があって、その大乱の後に卑弥呼が王に立てられ、3世紀の中ごろには再び千人余が死んだという大乱が起きていたようです。

 

時期的にみて後漢の桓帝と霊帝の間(146年~189年)に起きた大乱とは、倭連合とスサノオ(大国主連合)の戦いだったと思われますが、北九州の地図を見ると熊野神社がいくつもあるようですし、傘下の王達が毎年集まっていた大国主の都の纏向からは北九州の土器も出土しているようですから、この戦いでは大国主側が勝利し、北九州は大国主の傘下に入ったようです。

 

スサノオを祀る出雲国一宮・熊野大社

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纏向が卑弥呼の都ではなく大国主の都であったことについては「古代の地形から『記紀』の謎を解く」の第11章をご参照ください。

 

あくまでも自分の領土(クニ)に拘って戦いを続けようとする北九州の男王たちに対して、盟主に立てられた卑弥呼が大国主体制の下で平和的に共存するという決断を下したということでしょうか(^o^)。ここまで見てきたところでは、大国主の体制とは「諏訪の守矢神は侵攻してきた出雲族に負けたが虐げられることはなく、タケミナカタと共に『諏訪祭政一致体』を作った」と諏訪大社の神長官・守矢氏が伝えてきたように、進出して行った地域を征服して王を殺し、土地や財産をすべて奪って民を奴隷にするというやり方ではなく、共存共栄を図るものだったようですから。

 

神長官家の伝承については「古代の地形から『記紀』の謎を解く」の第8章「タケミナカタは大国主の息子なのか?」を、熊野神社とスサノオについては第1011章をご参照ください。

 

ところが「正始8年(247年)に倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣して狗奴国との戦いを報告した」そうですから、百済から渡来して狗那国を作り、隼人族を取り込んで南九州に勢力を広げていた天津族が、3世紀中頃から北九州へと勢力を広げ始めたようです。

 

卑弥呼は247年に帯方郡に使者を送ってこの狗奴国との戦いを報告した後死去し、その後に立った男王の時には千人余が死んだという大乱になって、その後卑弥呼の跡を継いでいた13歳の壱与が女王に立てられたようですが、この大乱とは、大国主の傘下に入っていた倭国(邪馬台国連合)と天津族の狗奴国の戦いだったのではないでしょうか。卑弥呼に次いで壱与が女王に立てられることになったのも、また先の見えない戦いで「男社会」が行き詰ったためだったのかもしれませんね<(_ _)>

 

女王に立てられた壱与は266年に西晋に朝貢使を送っていますが、これはこの間に中国では魏が滅びてしまって西晋か興っていたからですね。ところが、この壱与の266年の西晋への朝貢を最後に、413年まで、邪馬台国も狗奴国も日本の消息は中国の記録からは全く消えてしまっているそうです。そして5世紀になって突然中国の記録に現れるのが、「倭王・讃」です。

 

学者さんたちの間では中国の記録にある「倭王・讃」を始めとする「倭の五王」とはいったいどの天皇のことなのか「謎である」とされているようですが、これは学者さんたちが「多数の架空の天皇を加えて1000年分も水増ししてある『記紀』」のウソを信じているため、どうやってもつじつまを合わせることができないので謎になってしまっているのです(^o^)

 

東晋や宋に朝貢したのが「日本の天皇」ではなく「倭王・讃」と記録されているのは、この時代にはまだ「天皇」という言葉も「日本」という言葉もなく、日本の王は「漢委奴国王」や「親魏倭王」と同じように、中国の皇帝に認められれば外臣として任命される「倭の王」だったからでしょう。

 

東晋に朝貢したこの「倭王・讃」とは誰のことなのか、邪馬台国連合と狗奴国はどこへ消えてしまったのかについては「古代の地形から『記紀』の謎を解く」の第6章の3「謎の『倭の五王』を推理する」をご参照ください。

 
 

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