2016.8.23 穂高神社と安曇野59 海の正倉院と海人族
志賀島にやってきて「儺の国」を作っていた人達や安曇野にやって来た穂高見命の一行は海人族で、海人族は呉越戦争に敗れて国を後にした呉の人達だったようですが、宗像神社を奉斎する宗像氏も海人族だそうですから同族なのですね。
旧石器時代から日本にいた縄文人は、自給自足や物々交換をしていたのかもしれませんが、中国では呉よりはるか昔の殷(商)の時代から商売が盛んだったようです。商売・商人の語源はこの殷(商)の国だという説もありますし、貨幣も古くから使われていたようで、紀元前の秦の時代には始皇帝がそれまで諸国で使われていた諸種の貨幣を廃止して貨幣の統一までしていたのですから、その彼らが最も儲かる貿易をしていなかったはずはありませんよね(^_-)。
呉から志賀島にやってきて、博多・宗像から周辺へと支配を広げていた海人族は、海の知識が豊富で操船技術に優れていたうえに、中国語にも不自由がなく、故国には親族や友人・知人もいたでしょうし、日本にあって中国にはないものも、中国にあって日本にはないものも、それぞれの国の人々がどんなものを欲しがっているかも熟知していたでしょうから、貿易はお手のものだったと思われます。宗像氏は地方の豪族だったそうですが、その富の元は貿易によって得たものだったのではないでしょうか(^o^)。元手は国を出る時に船に積み込んできた呉のオタカラかな?
実際に海人族の宗像氏の支配地であり、九州と朝鮮半島とを結ぶ玄界灘のほぼ中央にある沖ノ島からは、古代の銅鏡や装飾品などが大量に出土していて、俗に「海の正倉院」と呼ばれているそうですから、海人族の宗像氏はこの島を貿易の中継点にしていたのかもしれません。
この沖ノ島は、九州本土から約60km離れた玄界灘の真っ只中に浮かぶ周囲4kmの孤島で宗像大社の神領になっており、島全体が御神体になっているために今でも女人禁制で、男性でも一般人は毎年5月27日以外の上陸は基本的に認められていないのだそうです。
沖ノ島
縄文遺跡があり、縄文人が住んでいたこの島がカミサマのはずはありませんし、現在宗像神社の祭神とされている「アマテラスの子の宗像三女神」は7世紀に『古事記』の創ったオハナシで、紀元前に呉からやって来た宗像氏の祖先であるはずもありませんから、宗像神社の元の祭神は「宗像三女神」ではなかったのだろうと思います。
沖ノ島はまたの名を「おいわず様(不言島)」といい、島のことは口外してはならず、一木一草といえども島外に持ち出してはならないのだそうですが、これは、沖ノ島が「カミサマ」だからではなく、みんなが欲しがる貴重で高価な舶来の品々は孤島に置いておく方が守り易くて安全だし、そのような貴重な品々を置いてある島だから「一族の男以外の一般人は決して近づいてはならない」し、「例え些細な物であっても何一つ勝手に島から持ち出してはならない」し、「そういう品々がここにあるということを決して口外してはならない」ということだったのではないでしょうか(^o^)。
女人禁制は、女性が舶来の装飾品などを眼にすれば必ず欲しがるし、誰かが一つでも入手すれば、どこからどうやって手に入れたかということはあっという間に広まってしまうからだったのかもしれません(^_-)。
そういう時は「持ち出したり口外したりすれば神罰が下る」とカミサマを口実にするのが一番効果的なのですよね(^_-)。沖ノ島は、縄文時代から人が住んでいた普通の島だったようですが、この口実のおかげで21世紀の今も「御神体」として上記の禁忌が守られ続けているようです(^o^)。昭和40年代には盗掘などもあったそうですが、神罰は下らなかったようですね。カミサマって権力者や支配者にとっては使い勝手の良い便利なツールなのです。
話は違いますが、王妃との離婚が認められなかったためにローマ教皇庁から独立して英国国教会を作ってしまったイングランド王ヘンリー8世などは、その場で神罰を受けて死んでしまってもいいはずなのにそうはならず、王妃を6人も次々に取り替えていたのですから、カミサマや教義は権力者の都合次第でどうにでもなるもののようです(^_-)。