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穂高神社と安曇野57 志賀島と金印8

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2016.8.20 穂高神社と安曇野57 志賀島と金印8

 

146年~189年の間に起きた大乱の後、盟主に立てられた卑弥呼が魏に送った朝貢使を、学者さんたちは「難升米(なしめ)」としているようですが、国から外国に送られた使者がただの「なしめ」というのは不自然だとは思いませんか?

 

一国を代表してやって来た使者であれば、「外務大臣の○○」だとか「元総理の××」だとかと肩書や身分や所属が記されるのが普通なのではないでしょうか?どこの馬の骨ともしれない一般人が国を代表する使者として外国へ行くことなどあり得ませんし、中国の皇帝がそんな人物に会ってくれるはずもありませんから、これは「なしめ」ではなく「難(儺・那)の升米」で、倭国連合のうちの「なの国」の人だったということではないでしょうか。

 

実は、2010年には私はまだ「漢委奴国王」は「漢の倭の奴(な)の国王」であるという教科書の記述を信じていたので、「古代の地形から『記紀』の謎を解く」には「奴国の升米」と書いてしまったのですが、ここまでに「委奴国王」は「倭の奴(な)の国王」ではなく、「委奴(いと)国の王」であることが分かりましたから、これは「難(儺)の升米」とするべきでした<(_ _)>

 

また、学者さんたちは「卑弥呼の時代には日本には文字は無かった」と思い込んでいるようなのですが、そもそも文字がなくて何の文書(国書)も持参せず、外交に関する決め事を口約束ですませたなどということはあり得ないのではありませんか?

 

言葉が通じなければ何のために来たのか説明することができず、口約束を取りつけることさえできなかったでしょうし、文字を知らなかったのであれば、返書を貰えたとしても読むこともできなかったということになりますが、もし文字を知らず言葉も通じなかったとしたら、「なしめ」はどうやって使者の役目を果たし、「親魏倭王」の金印を貰ってきたというのでしょうね?

 

もしそんな言葉も文字も分からないような使者がやってきたら、魏の皇帝は東夷の者と蔑むことはあっても、その意を察してやったり外臣と認めて金印を与えたりはしなかっただろうとは思いませんか(^o^)


でも、そのような疑問を持つこと自体「アカデミックな態度ではない」として学者さんたちには一蹴されてしまうのでしょうね(^_-)

 

けれど、難升米が「なしめ」ではなく「難の升米」だったのであれば、儺の国を作っていた海人族は呉からやって来た人達だったようですから、使者として中国へ行っても読み書きにも、会話にも、中国の慣習や作法にも不自由も戸惑いもなかったでしょうね(^o^)

 

そもそも「弥生人」とは、弥生時代に中国や朝鮮半島から日本列島に渡来して来た人達で、少なくても支配階級は文字を読み書きできる人達だったと私は思うのですが、学者さんたちは、縄文人も弥生人も日本列島で自然発生した人たちで文字など知らなかったのだと思い込んでいるようですね。それとも「日本人はみんな天から降って来たのだ」と思い込んでいるのかな(^_-)???

 

 思い込みと言えば、昨日の夕方NHKをつけたら、たまたまハニワと古墳が映っていて、「古墳は日本独特のものです」と聞こえてきたのですが、それも全く根拠の無い思い込みであって大間違いなのです

 

2013年に能登で「雨の宮古墳群」を見、この古墳群が朝鮮南部にあった阿羅国の古墳群と瓜二つであることを知って驚いたのですが、考えてみれば古墳は縄文人の文化ではなく、渡来人である弥生人の文化なのですから、「日本独特のもの」のはずがないのです(^o^)

 

私はこれまで関東地方で支石墓というものを見たことがなくて、先日韓国の歴史に関する本で支石墓の写真を見たのですが、伊都国歴史博物館の図録を見ると、北九州にはたくさんあるようですね。

 

韓国・江華島の支石墓

イメージ 1

 

伊都国歴史博物館の図録に載っていた支石墓

イメージ 2

 

↑には「弥生時代の始まりと支石墓」と題して「北方系は高くテーブル状、南方系は低い碁盤状で、日本の支石墓は南方の影響を受けている」と記されているのですが、これは朝鮮南部の影響を受けて「日本人」が碁盤状の支石墓を作り始めたのではなく、碁盤状の支石墓を作っていた朝鮮半島南部の人達が北九州へ渡来して来て日本の弥生時代が始まったということなのですよね(^o^)

 
 
 

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