2016.8.19 穂高神社と安曇野56 志賀島と金印7
「漢委奴国王」の金印は、江戸時代の天明4年(1784)に農作業中の農民によって志賀島で偶然に発見されたのだそうですが、その発見された経緯は詳らかではないようです。この金印は土に埋もれていたのではなく、巨石の下に3つの石で囲むように隠されていたのだそうですが・・・・
現在その場所は「金印出土地公園」として整備されているそうですが、ピンポイントで場所が分かっているわけではありませんから推定のようです(^_-)。
発見時期や発見場所から見て、この金印は口伝が伝えているように(伊都国の王の祖廟だった)細石神社から江戸時代に持ち出され、志賀島に隠されていたということのようですね。細石神社からこの金印が消えたのが江戸時代のいつ頃だったのかが分からないのですが、ミステリーでは「まず第一発見者を疑う」のが常道のようですから(^_-)、ひょっとするとこの金印を細石神社から持ち出した(盗み出した?)のは発見者だったのかもしれません。
古代史の謎解きには、つじつま合わせばかりで納得できない非論理的な「歴史解釈本」を読むよりもミステリー小説を読む方が確実に効果的なようです(^_-)。
さて、それでは漢に征服された訳でも強要された訳でもないのに、伊都国の王は何のために自ら紀元57年に後漢の光武帝に朝貢したのでしょうね?一国の王が何の目的も無く、はるか遠い国の会ったこともない皇帝に臣下の礼をとってまでたくさんの贈り物をしたりするはずはありませんから、その理由を残された記録から推理してみました(^_-)。
「倭国では男王の時代が70~80年続いていたが、1世紀の中頃から5~6年に渡って内乱があった」のだそうです。伊都国の男王が光武帝に朝貢したのはまさに1世紀の中頃の紀元57年ですから、この頃、隣の「儺(那)の国」が周辺に勢力を広げ始めて争いが続いていたために、外臣となることで後漢の庇護を求めようとして朝貢したのではないでしょうか。
『後漢書』によれば、「桓帝と霊帝の間(146年~189年)に倭国では大乱があり、その後一人の女子(卑弥呼)を立てて王とした」そうですが、卑弥呼が朝貢した魏は220~265年の国ですから、卑弥呼が王に立てられたのはこの大乱の後のことで、紀元57年に伊都国の王が光武帝に朝貢してから200年ほど後のことだったようです。この146年~189年の間に起きたという大乱は、時期的に見てスサノオ(大国主体制)の襲来でしょうか。
この辺りについての推理は、2010年に「古代の地形から『記紀』の謎を解く」の第10章「アマテラスと争ったスサノオとは?」に書いたのですが、その後2016年までの検証によって、本に書いた2010年までの推理は大筋で違っていないことが確認されてきています\(^o^)/。
細かい点ではその後いろいろ分かってきたこともあるので、付け加えたいことや手直ししたい所もあるのですが、大まかな歴史の流れは間違っていなかったので、その流れに沿って、その後見聞した様々な情報を繋ぎ合わせることができるようになってきたのです。
「ニュースや文献の情報は、お互いに関連付けて初めて意味を持ちます。あらかじめ自分の頭の中に筋が描けていないと、バラバラに入った情報はつながらず、知識の断片にすぎません。日頃ミステリーを読んでいると、複雑に見える状況を解きほぐし、一見、無関係な要素を組み合わせるという作業に慣れてきます。情報の受け手として、枠組みを準備できるようになるのです」
ということなのですが(^o^)、その頭に描いた大まかな筋が『古事記伝』を元にしたものだと、その筋に合わせるために強引に非論理的なつじつま合わせをすることになってしまうということなのですよね(^_-)。