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穂高神社と安曇野55 志賀島と金印6

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2016.8.18 穂高神社と安曇野55 志賀島と金印6

 

この金印の印面に刻まれた文字は、“漢”の文字で始まっていますが、福岡市博物館によれば、異民族であっても直轄領内の内臣には「てん王之印」のように王朝名は付けられないそうで、「“漢”で始まるのは倭が外臣として服属しているが、直轄領となっていなかったため」なのだそうですが・・・・

 

金印

イメージ 1

 

邪馬台国の卑弥呼が魏から貰ったという金印は、「今汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を授ける」と、卑弥呼を「邪馬台国(の)王」ではなく、「倭(の)王」としていますから、卑弥呼を王(盟主)として立てた3世紀には、邪馬台国を含む約30のクニグニが連合して「倭国」となったようです。


けれども、後漢の光武帝から「漢委奴国王」の金印を貰ったのは紀元57年で、「倭国」が成立する前のこれらのクニグニが男王の時代だったのですから、論理的に考えるなら「漢の外臣」と光武帝が認めたのが「倭」のはずはありませんよね(^_-)

 

この金印の「漢委奴国王」は「漢の倭の奴の国王」ではなく、「漢の(外臣である)委奴国(いとこく)の王」と読むのが正しいようです。そもそも金印に刻まれている文字は「倭」ではなく「委」なのですし、漢和辞典を見ても「奴」は「ぬ・ど」であって「な」とは読まないようですしね(^_-)。「なの国」は「儺(那・難)の国」であろうと私は思います。

 

イト国の「ト」に「都」ではなく卑字の「奴」を当てたのは、ヒミコの「ヒ」に「卑」の文字を当てたのと同じように東夷の国だからということではないでしょうか。

 

「奴国」を「なの国」と読むことに疑問を感じていた私は、「まぼろしの邪馬台国」に「奴」は漢音では「ど」、呉音では「ぬ」だから「奴」を「な」と読んではならないと記されているのを見ておおいに納得したのですが(^o^)、宮崎康平氏以外のほとんどの日本人は「奴」は「な」で「委奴国」は「わのなのくに」であると信じて露ほども疑ってはいないようです<(_ _)>

 

誰が(どの学者さんが)「奴国」は「なの国」であると言い出したのかは分かりませんが、後続の学者さんたちが今に至るまで当然のごとく「奴国」を「なの国」としているのをみると、さぞかし国を代表するような立派な「学術的な肩書き」をお持ちの方だったのでしょうね。肩書きやアカデミックな世界に何の接点もない私にはどれほど立派な肩書きをお持ちの学者さんだったのかまったく見当もつかないのですが(^o^)

 

けれど、この国民的な合意(ほとんど信仰?)となっているらしい「『漢委奴国王』は『漢の倭(わ)の奴(な)の国王』と読む」という「説」は、論理性や歴史全体の整合性を全く考慮しないアカデミックな歴史学者さんたちがお得意とする「委は倭と考えてよい」「奴は(な)と読んでもよい」というようなつじつま合わせの一つだったようですね(^_-)

 

↑のコメント欄に、最近組織のトップに女性が増えてきたのは男性の価値観で作り上げられた「男社会」が行き詰ってきたということなのではないか?と書いたのですが(^_-)、歴史は繰り返すようですから、1800年前にも戦続きで「男社会」が行き詰ったために卑弥呼が王(盟主)に立てられることになったのかもしれません(^_-)

 

トップといえば、話は全く違いますが今日3人全員が世界のトップに立った女子レスリングはすごいですね\(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/。

 

「委奴国」を「わのなのくに」としている限り、なぜ金印が志賀島にあったのかというナゾも、なぜ三雲南小路王墓や井原鑓溝王墓に前漢鏡や後漢鏡が大量に副葬されていたのかというナゾも解けることはないだろうと私は思うのですが、歴史学は科学ではなくて「文献の解釈学」であり、「解釈」というのは不合理であろうと非論理的であろうとおかまいなく「自分(の説)に都合のいいように考える」ということのようですね<(_ _)>

 

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