2016.8.17 穂高神社と安曇野54 志賀島と金印5
糸島では3つの伊都国王墓が分かっており、その中で細石神社のある「三雲南小路王墓」が最も古い王墓だそうですから、細石神社は、やはり次の王が先代の王を祀るために作った伊都国王家の祖廟で、祭神はこの王墓の被葬者である王夫妻だったようです。
この王墓から発掘された金銅四葉座飾金具やガラス璧は、中国の皇帝が王侯クラスの身分の高い臣下に葬具として下賜する品だそうですし、この王墓からは57面以上の前漢鏡が出土していますから、この王墓の被葬者である伊都国の王は、前漢の時代から朝貢して漢の属国となっていたようです。
金銅四葉座飾金具(右)と復元品(左)
金銅四葉座飾金具の使用例
ガラス璧と復元品
金銅四葉座飾金具とガラス璧は、この王の死に際して前漢の皇帝から下賜されたものであり、出土した57面の前漢鏡は朝貢の見返りとしてこの王に下賜されたものだったから、王の私物として王墓に副葬されたのでしょう。
三雲南小路遺跡の南端にあったと推定されている井原鑓溝王墓からは後漢鏡が21面出土しているそうですから、紀元57年に後漢の光武帝に朝貢使を送って「漢委奴国王」の金印を貰ったのは、この井原鑓溝王墓の被葬者の伊都国王のようです。この王が三雲南小路王墓に先代の王夫妻を埋葬し、両親を祀る祖廟として細石神社を造ったのでしょう。
やはり志賀島から出土した「漢委奴国王」の金印は「倭の奴の国王」が漢から貰ったものではなく、「委奴(いと・伊都)国の王」が後漢の光武帝から貰ったものだったようです(^o^)。
それなら伊都国の王の祖廟であった「細石神社」に王印が宝物として納められていたとしても不自然ではありませんし、この神社に王印があったという口伝にもおおいに信憑性があるわけですね\(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/。
やはり「火のない所に煙は立たない」ようです(^_-)。