2016.8.16 穂高神社と安曇野53 志賀島と金印4
8.8の「志賀島と金印」の続きに戻ります。
『漢委奴國王』の金印が宝物として伝わっていたという細石(さざれいし)神社とはいったいどういう神社なのか、なぜそのような口伝が残っているのかを調べてみました。
この神社は福岡県糸島市三雲にあり、古くは「佐々禮石神社」と表記されていたのだそうですが、この糸島市三雲というのは「三雲・井原遺跡」がある所のようです。私はまだ福岡に行ったことがなく、福岡については何も知らないのですが<(_ _)>、資料によればこの遺跡には歴代の王の墓があって、この神社のある一帯が伊都国の王都の中心とみられるのだそうです。
実はこの資料は何年か前に福岡の方が送って下さったのですが、当時は読んでも場所が全く分からず、ほとんど理解できなかったのです<(_ _)>。今回、細石神社が三雲にあることが分かったので、確か三雲のことが何か書いてあったはずと探してみたら、この資料はなんと「伊都国歴史博物館」の図録で、この博物館は三雲の細石神社のすぐ近くにあるということが分かり、俄然興味が湧いてきて行ってみたくなりました(^o^)。
細石神社の後ろには三雲南小路遺跡があって、これは周囲に東西 32m・南北 31mの隅丸方形に幅4.2~4.5mの周溝を巡らせ、高さ2m以上の墳丘に2基の甕棺を埋葬した王墓で、弥生時代中期末の伊都国王の墓とみられるそうです。
三雲南小路遺跡
1号甕棺からは35面、2号甕棺からは22面以上の前漢鏡、青銅製武器、金銅製四葉座飾り金具、ガラス製壁、装身具等豪華な副葬品が出土しているそうで、1号甕棺には大型の銅鏡や武器、2号甕棺には小型の銅鏡や装身具が副葬されていたことから、1号甕棺には王、2号甕棺には王妃が埋葬されていたと考えられているようです。
甕棺の出土状況
左・2号甕棺 右・1号甕棺の内部の復元写真
細石神社は、古くは神田も多い大社だったそうですし、王都の中心部の王夫妻の墓の前に作られていたのですから、この神社は、伊都国の王夫妻を祀るために造られた神社でしょう。現在この神社の祭神は磐長姫と木花開耶姫になっているそうですが、この二人は7世紀に『古事記』が創ったオハナシの登場人物であって、弥生時代中期末の神社に祀られていたはずはありませんから、作られた当時の「佐々禮石神社」の祭神は、この墓の被葬者である伊都国の王夫妻だったのではないでしょうか。