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穂高神社と安曇野48 海人族と志賀島

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2016.8.4 穂高神社と安曇野48 海人族と志賀島

 

『火の路』には「両槻宮は日本書紀にちゃんと出ている。だから事実だとみんな思っている。記事の通りの事実でないにしてもそれに近いことはあったと考えるわね。ところが、その書記の方がまるきり嘘を書いているとしたら?・・・」という主人公の友人の言葉もありました。松本清張氏も不自然なオハナシの部分はウソだとお考えになっていたようです\(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/。

 

安曇野からまたあちこちに飛び回ってしまいましたが戻ります。余談ですが、『火の路』の主人公の実家は安曇野になっていました(^o^)

 

『穂高神社と安曇族』には「古代海人族、志賀島に上陸」と記されていました。優れた航海術を持っていたという海人族の穂高見命は、安曇野には舟でやって来たようですが、穂高見命が呉国から直接安曇野にやって来たわけではありませんから、穂高見命の祖先が紀元前5世紀後半に呉から渡来してきて最初に上陸したのは志賀島だったのかもしれません。

 

志賀島には綿津見神を祀る志賀海神社が島の東南端にあるそうですが、この神社は「延喜式」では式内社の名神大社になっていて、清和天皇の時には従五位上の神階を与えられていたそうですから、この神社を祖廟として作った海人族の長は王族だったのでしょう。

 

綿津見神とは表津(うわつ)・仲津・底津の三神を総称したもので、イザナギノミコトが黄泉から逃げ帰って禊をした時に生まれた神々であり、元は三つの宮に祀られていたものを24世紀に安曇族の祖とされる安曇磯良が現在地に遷したと伝わっているそうですが、イザナギが登場する『古事記』が作られたのは78世紀ですから、この伝承(社伝?)その後で創られたものなのでしょうね。


安曇磯良が遷したということは、この神社はそれ以前からあったということですから、紀元前5世紀後半に呉から志賀島にやって来た海人族の子孫が24世紀の安曇磯良で、磯良の子孫が安曇野に進出していって安曇族になったということではないでしょうか。

 

志賀島

イメージ 1

 

遷される前には三つの宮は志賀島の北端にあったようです。神社は支配者の上陸地に作られ、上陸した港は神戸(かんど・ごうど・こうべ)と名付けられていることが多いようですから、呉からやって来た海人族はまずここに上陸したのかもしれませんね。ここに3つの神社があって、3人の神が祀られているということは、志賀島にやって来た呉の王族は3人兄弟だったのでしょうか?

 

ここにあった神社を現在地に遷したのは2~4世紀の安曇磯良で、この志賀海神社の主祭神は「底綿津見神」なのだそうですが、底綿津見神は最後に生まれた神ですよね。つまり3兄弟の末子ということのようですが、この末子の底綿津見神を主祭神として左右に他の二伸を祀っているということは、この博多の辺りを支配地としていたのは3兄弟の末子で、安曇磯良はその末子の子孫(名負いの氏)なのかもしれません(^o^)

 

博多の北東には宗像市がありますが、宗像(胸形)氏も海人族だそうですから、宗像市の辺りは二人の兄のどちらかの支配地だったのかもしれませんね(^_-)。宗像大社も式内社で名神大社になっていますし。

 

宗像大社にも沖津宮・中津宮・辺津宮の3つの神社があって、祭神はアマテラスが生んだ宗像三女神ということになっていますが、これも『古事記』に合わせて後から創られた神で、元は呉の王族の3兄弟だったのかもしれません。アマテラスも、アマテラスが生んだという三女神も架空の人物ですし、海人族と三女神はなんの関係もなさそうですから(^_-)



 

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