2016.8.3 穂高神社と安曇野47 『火の路』
松本清張著『火の路』を読んで、「歴史学における科学的でアカデミックな態度とは文献や諸学説を並べることであり、教授と異なる意見を持ってはならない」ということがその世界の「常識」なのだということを知り、「うすうす感じてはいたけれど、やっぱりそうだったのか」と思ったのですが(^_-)、この小説には他にもいろいろと示唆に富んだことが記されていました。
例えば、『日本書紀』には「斉明天皇が田身嶺(たむのみね)に両槻宮(ふたつきのみや)を造った」という記事が載っているのだけれど、場所は記されておらず、遺構も見つかっていないということについて、古代史専攻ではない主人公の友人が、「狂心(たぶれごころ)の渠(ほり)や両槻宮は探しても無駄な幻かもしれない」と言う場面があって、著者は
部外者、いうところのシロウトのほうが無心な直感を働かせて専門学徒の盲点を衝くことがある。
と記しているのですが、これは私が古代史の謎解きを始めて以来ずっと感じてきたことなのですよね(^_-)。ごく普通に考えれば「なんで?」と疑問に思うことを、どうして「立派な学術的肩書き」をお持ちの学者さんたちは疑問に思わないのだろう?ということが私にとって最大の謎になってきていたのですが、学者さんたちの常識は一般人の常識とは違うということだったようです。どんなにあり得ないようなことでも、文献にあることに疑問を持ったりするのは「アカデミックな態度」ではないようですから(^o^)。
私の素朴な疑問は、オトナのジョーシキを持たない幼子の「なんで?」と同じように、業界のジョーシキを知らない門外漢の常識以前の疑問だったから、専門家には答えの用意がないものばかりだったということのようですね(^_-)。
『日本書紀』に「氷高皇女は沈静婉れんにして・・・」と書いてあるのだから元正天皇は美貌の持ち主だったのだと考えるのがアカデミックな態度であって、1300年も前の人が美人だったかどうかどうして分かったのだろう?というような疑問を持つのはアカデミックな態度ではないわけです。
同じように『日本書紀』に「斉明天皇は渠を造らせ田身嶺に両槻宮を造った」と書いてあるのだから遺構の有無に関わらず造ったのは事実であって、なぜ山の上にそんなものを造ったのか?ということについては、文献に「土木工事を好んだ」と書いてあり、「狂心(たぶれごころ)の渠」とも書いてあるのだから、精神的に不安定だったためと考えればよい、としてつじつまを合わせるのが「アカデミックな態度」であって、遺構が全く出てこないのに造ったというのは事実なのだろうか?斉明天皇が精神的に不安定だったというのは本当なのだろうか?そもそも女性の人権など全く認められていなかった時代に女性が天皇になり、重祚までしたうえに好き勝手をすることなどできたのだろうか?などと疑問を持ったりするのは「アカデミック」ではないわけですね(^_^.)。
でも、松本清張氏は作品の中で主人公の友人に「斉明天皇って、書記ではどうしてあんな妙な天皇にされているのかしら?」とも言わせていましたから、これらの記述に疑問をお持ちだったようです(^o^)。
以前「平城天皇は精神的に不安定で、妻の母親の薬子に恋をして乱を起こした」「孝謙天皇は僧の道鏡に恋をして天皇位を譲ろうとした」などの妙なオハナシの背景を調べてみたら、みな事実を隠蔽するために作られた真っ赤なウソだったことが分かりましたが、普通の感覚で妙だと感じるオハナシは、何かを隠すための作り話のようです(^_-)。三代の蘇我氏が専横で天皇を殺したり作ったりしていたという妙なオハナシや、大国主が抵抗もせずに天孫に国を譲ったという妙なオハナシも真っ赤なウソでしたしね。
『火の路』はいつ頃書かれたものだろうと思ったら、初出は1973~4年の朝日新聞朝刊の新聞小説だったそうです。今年は2016年ですから、もう半世紀近くも経っているのに、歴史学者さんたちの「アカデミックな態度」は少しも変わっていないようですね<(_ _)>。
以前、半世紀以上前に杉本勲氏が書かれたという『虚構の日本史』を読んでみたいと思って探したことがあったのですが、書店にも図書館にも無く、杉本勲氏がどのような方かも分かりませんでした(T_T)。どこにでも山のようにあるのは、『記紀』の虚構を事実としてつじつまを合わせる解釈をしたものばかりなのですよね<(_ _)>。
昨日の新聞には「2020年に教科書が変わる」という記事が出ていたのですが、新しくなるのは近現代史だけのようですから、古代史はきっと旧態依然の「虚構」のままなのでしょうね(T_T)。。