Quantcast
Channel: 歴史探訪
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1389

コメントへのお返事

$
0
0

2016.7.31 コメントへのお返事

 

コメント

和銅6年(713年)43日に丹波国の北部、加佐郡、与謝郡、丹波郡、竹野郡、熊野郡の5郡を割いて、丹後国が置かれました。

 

古墳時代には竹野川流域を中心に繁栄しており、独自の王国が存在したとする説もある(丹後王国論を参照)。

7世紀に令制国として丹波国が成立したときは、丹波郡(後の中郡)がその中心地であった説もある。

 

丹波国が令制国として成立した当初には、丹波郡・丹波郷を有して丹波国の中心であったとみられる北部の地域が丹波国として残されず、逆に丹後国として分離されてしまったのは、丹波国の中心が北部の丹波郡から、より都に近い丹波国南部(丹後分国後の丹波国の地域)へと移動していたためと考えられています。

南部の桑田郡(亀岡市)は国分寺・国分尼寺が建立され、奈良時代には丹波国の中心地となっていたことが知られる。

2016/7/30() 午後 4:34 [ 歴史&環境&公徳心ツアー]

 

お返事

丹波国と丹後国についてのご教示ありがとうございます。私は丹後にも丹波にもまだ行ったことがないので<(_ _)>、今のところはまだお書きいただいた地名やその場所がよく分かりませんし、地形も全く分かりません。

 

「丹後王国論」も全く知らなかったのですが<(_ _)>、私は、天津族に征服されるまでそれぞれの地域にはそれぞれ小部族国家(王国)があったと考えていますので、丹後にも王国はあったと思います。天津族は人のいない原野や山地に進出して開拓していったわけではなく、『古事記』の「神武の東征」で語られているように、旧石器時代から人が住んでいて拓かれており、弥生時代には小王国組織を作っていたクニグニを奪い取って自分たちのものにしていったのですから。

 

丹後国の王(国主)は真名井原の匏宮(よさのみや・与佐宮)に住んでいた、現在は豊受大神という名前で伊勢神宮外宮に祀られている地祇(国津神)で、この王(国主)は天津族に征服されるまでは大国主の傘下に入っていたのだろうと思います。

 

和銅6年(713年)43日に丹波国から分離されたという丹後国は、それぞれの一の宮の祭神を見ると、元々別個の二つの小王国だったようです。

 

丹後国一の宮は「籠神社」であり、丹後国の王は真名井原の与佐宮に住んで祖廟に「豊受大神」を祀っていた国津神だったようですが、「豊受大神」という名前は、多分天津族が創ったもので、元々の祭神はこの国の王夫妻であった「○○彦と○○姫」だったのではないかと思います。


今このカミサマが伊勢神宮に(同格ではなく、アマテラスの食事係としてですが)祀られているということは、天津族の侵攻を受けた時真っ先に恭順して、ヤタガラスになった事代主(鴨大神)のように東征軍の手引きをし、その功績で丹波を貰ったので丹波と丹後は和銅6年に再編されるまで一つの国になっていたということなのかもしれません。豊受大神は籠神社でも差し替えられることなく相殿に祀られていますし、豊受大神(の子孫)が丹後から伊勢に呼び寄せられたのは、5世紀後半だったようですから(^_-)

 

それに対して丹波国の一の宮は出雲大神宮で、この神社の祭神は「大国主命(別名・三穂津彦命)」とその后の三穂津姫命」だとされていますが、創建された時に祀られていたのはこのクニの王夫妻の「三穂津彦と三穂津姫」だったのではないでしょうか。この出雲大神宮 の主祭神とされている「大国主命」は、不比等が709年に作った出雲大社に遷されてしまったので、先年の遷宮のための建て替えの間は里帰りしていたようですが、現在はまた空っぽの「空の間」になっているようです(^_^.)


この出雲大神宮では神社名が変えられ、祭神も大国主に差し替えられて「三穂津彦命」は消されてしまい、三穂津姫は大国主の后だということにされているようですから、この王は天津族の侵攻に抵抗して戦い、殺されてしまったのではないかと思います。


2013年に遷宮が済んだ出雲大社 

イメージ 2
2014.5にも、まだたくさんの人が行列していました。

 私は実際に行ったことはなかったのですが、出雲大社と出雲大神宮については2010年に考えてみていました。6年も前のことでまだ知識も見聞も少なく、裏付けの取れていない推理の部分もありますが、よろしかったらご覧になってみてください。
 

出雲大社には2014年に行きましたが、行ってみて分ったことや推理の裏付けが取れたことは本当にたくさんありました\(^o^)/。例えば、出雲大社の宮司さんが祖廟に祀っていたのは『古事記』の創った架空のアメノホヒノミコトではなく、本当の祖先である「宮向宿禰命」だったらしいとか・・・・(^_-)



イメージ 1

 

出雲で分かってきたことは↓から延々と書いています。

 
 
 

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1389

Trending Articles