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穂高神社と安曇野44 呉国と孫子の兵法

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2016.7.30 穂高神社と安曇野44 呉国と孫子の兵法

 

呉越戦争の頃の呉というと、三国時代(魏・呉・蜀)の呉(222年~280年)ではなく、春秋戦国時代の呉(紀元前585年頃~紀元前473年)のことで、呉王・夫差と越王・勾践が激しい戦いを繰り返し、孫武(孫子)が兵法書を書いて呉の将軍となっていた頃のことですね。

 

大きな船など持っているはずもない一般庶民が簡単に海外脱出などできたはずはありませんから、ひょっとすると越に敗れて呉から志賀島に逃れてきた人々とは呉の王族や孫武たちだったのではないか?と思いついて(^_-)、「孫武」について調べてみました。

 

紀元前496年に呉王・闔閭(こうりょ)が将軍・孫武の意見を容れずに越を攻めて苦戦に陥り死亡した後、孫武は伍子胥(ごししょ)とともに太子の夫差を補佐して国力を養い、夫椒で越を大敗させ雪辱を果たしたものの、紀元前473年には越王・勾践に敗れて夫差は自害し、呉は滅亡してしまったのだそうです<(__)>。滅亡後の孫武の後半生については何も記録がなく、お墓も不明だそうですから、何も記録のない後半生は志賀島にいたのかもしれません(^_-)

 

子供の頃「臥薪嘗胆」というオハナシを読んで良く分からなかったのですが、しばらく前にテレビドラマで「孫子大伝」を見て、「臥薪嘗胆」の時代と兵法書を書いた孫子はその時代の人だったのだということが分かりました(^o^)。その時代について私が知っていたのは「臥薪嘗胆」のエピソードだけだったのですが、ドラマには「臥薪嘗胆」のシーンはなかったような気がします(^_^.)

 

孫武についてさらに調べてみると、孫武が実在した武将なのかどうか古くから中国史学者の間では論争が続いていたということが分かりました。「孫子の兵法」と孫武の関係も疑問視されていて、「呉の人ではなかった孫武が呉の将軍になって呉で大活躍したなどというのは、兵法家連中のでっちあげたデマだ」という孫武非実在説まであるのだそうです(-_-;)

 

う~~ん、まるで聖徳太子と『三経義疏』のようですが<(_ _)>、孫武は実在しなかった、あるいは兵法書を書いたのは孫武ではないという可能性もあるかもしれませんね~。歴史家や小説家は、カミサマでもスーパーヒーローでも思いのままに作り出してたくさんのオハナシを創ってしまっていますからね~。

 

日本で言えば、聖徳太子が書いたという『三経義疏』は存在していますが、「超天才にして大聖人の聖徳太子」は不比等が創った架空の人物ですから、『三経義疏』を書いたのは聖徳太子ではありません。『三経義疏』の存在が「聖徳太子」の実在を証明するものではないように、「孫子の兵法書」の存在は、孫子が「呉の将軍だった孫武」であって実在の人物だったことを証明するものではないのかもしれません(^_-)

 

聖徳太子は架空の人物であって、隋に国書を送ったのはこの時代に実際の大王(おおきみ)であったアメノタリシヒコであることにつては「古代の地形から『記紀』の謎を解く」をご参照ください。


↑では架空の聖徳太子の父の用明天皇を架空の天皇としていますが、その後、用明天皇は実在の天皇で、敏達天皇が架空の天皇だったことが分かりました。でも、このことは2015年に分かったことですので、本には入っていません(T_T)。 
 

偉人伝を読んだ時に納得できなかった「臥薪嘗胆」についてもついでに調べてみたのですが(^o^)、これも史実ではなく後から創られたオハナシのようで、「臥薪嘗胆」という言葉を作ったのは14世紀の詩人の蘇軾だったようです(^o^)

 

子供の頃、薪の上では痛くてよく眠れないと思うけれど、戦うのならよく寝た方がいいんじゃないのかな~?と疑問に思ったのですが、やはり王様は薪の上になど寝ていなかったようです(^o^)。どこでも絹の布団に寝て贅沢をしているのが王様であって、ヨソの国と戦うのは、より多くの富を手に入れて贅沢をするためなのですものね(^_-)

 
 
 

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