2016.7.29 穂高神社と安曇野43 穂高見命
穂高神社からあちこちに飛んでしまいましたが安曇野に戻ります。
先日たまたま深田久弥著『日本百名山』を開いたら、出てきたページが「55 穂高岳」だったので、どんなことが書いてあったっけ?と読み直してみたところ、「信濃もかつては海であった。わたつみであった。安曇はわたつみの転訛だという。」と穂高神社の縁起に記されていると書いてありました(^o^)。
気を付けてみるといろいろな所に古代の海に関する記述があるのですが、神社関係に特に海の記述が多いのは、古代人の主な交通手段は舟で、神社に「祖神(おやがみ)」として祀られている人たちは舟でやって来たからだろうと思います(^o^)。
神社はたいてい古代の海に面した台地の縁の小高い所に造られていますし、御船祭りは安曇野だけではなく、諏訪大社や鹿島神宮や香取神宮などにもありますし、御船祭りではなくてもカミサマを乗せたお神輿を海まで担いで行ったり、海に担ぎ入れたりするお祭りはあちこちにあるようですしね(^_-)。
信濃が海であったことや、安曇族が航海の知識や操船技術に長けた海人族であったことや、安曇野には舟でやって来たことなどが神社にはちゃんと伝わっていたから、穂高神社のお祭りは「御船祭り」で、カミサマの乗り物は車(山車)や輿(神輿)ではなく船なのでしょう(^o^)。
穂高神社では、祭神の穂高見命は穂高岳へ天降ったとしていますが、もちろんそれは事実ではなくオハナシ(神話)です。もし天降ってきたのであれば、山の上に飛行船ならともかく普通の舟で行くことはできませんから、穂高神社に御船祭りはなかったでしょうし(^_-)、穂高見命が本当にニンゲンではなく天から降って来たカミサマであったなら、よく絵にあるカミサマのようにどこへでも雲に乗って行けるはずで、舟など必要ありませんよね(^_-)。カミならぬ身の海人族の穂高見命は、舟で安曇野にやって来たのでしょう(^o^)。
穂高神社
『日本百名山』が刊行されたのは昭和39年で、それ以降たくさんの人がこの本を読んだはずですし、穂高神社の由緒もたくさんの人が眼にしているはずですが、それを読んで「穂高見命が天降った」ことは信じても、「山国の信濃がかつては海であった」ことを信じた人はいなかったようですね(^_-)。
読み飛ばしたと言えば、「71 丹沢山」の項には、「当時あまり知られていなかった丹沢山は、関東大震災の震源地ということで世に知られるようになった」と記されていました。
これも当時はプレートテクトニクスを全く知らなかったので読み飛ばしてしまいましたが<(_ _)>、関東大震災はフィリピン海プレートが丹沢山を動かすほどに強く大きく動いたことによって引き起こされた地震だったようです。
以前『日本百名山』を読んだ時には、「信濃がかつては海であった」という部分を読み飛ばしてしまったのですが<(_ _)>、ここまでに信濃は実際に海だったことや、氏族が氏神として祀るカミサマとはその氏族の祖先であり、ヒトであることが分かりました。それでは穂高見命と安曇族の人達はいつ頃どこから舟に乗ってやって来たのでしょうね?
穂高神社で購入してきた「穂高神社と安曇族」を読んでみたら、安曇族の祖は天から降って来たカミサマでも4世紀に朝鮮半島からやって来た人でもなく、紀元前5世紀後半頃に呉越戦争に敗れた中国南部の呉国から志賀島にやって来た人々だったようだということが分かってきました(^o^)。安曇野にやって来た穂高見命は、中国から渡来した弥生人の子孫だったようです。
「穂高神社と安曇族」
呉や越の国のあった中国南部の沿岸地方の人々は、優れた航海の知識や技術を持っていて「海人族」と呼ばれていたそうです。