2016.7.26 弥生式土器発掘ゆかりの地2 根津神社
五代将軍・綱吉が造らせた権現造りの根津神社
↓には「重要文化財」と書いてありますが、
こちらには「国宝」と書いてあります。どっちなのかな?
調べてみたら、国宝ではなく重要文化財でした(^_-)。
祭神は「須佐之男命・大山咋命・誉田別命」となっていますが、徳川家とこの神社の祭神には何の関係もないようですし、関東は天津族が東征して来るまでは大国主の傘下に入っていたのですから、団子坂上の千駄木に造られていたこの神社は、東国にやって来ていたスサノオの子孫がスサノオを祀る祖廟として造ったものでしょう。
この神社は第6代将軍家宣の産土神とされていますが、そもそも徳川家の神社であるなら、権現造りの派手な社殿に祀られているのは、東照大権現の家康のはずですよね?将軍家の始祖の家康がカミサマになっているのに、わざわざなんの関係もないヨソのカミサマ(他人の先祖)を祀る必要はないではありませんか(^_-)。この神社の現在の建物を造ったのは徳川綱吉ですが、千駄木にこの神社を造ってスサノオを祀ったのはスサノオの子孫だったということでしょう。
神社では創建を「日本武尊」としていて、日本武尊の創建とされている神社はとても多いのですが、日本武尊は『古事記』が創った架空の人物で、ヤマトタケルのオハナシの熊襲平定、出雲平定、東国平定は実際には6世紀前半の出来事なのです。けれど素戔嗚を祀るこの神社の創建は、6世紀ではなく4世紀以前の大国主の時代だろうと思います。
ヤマトタケルについては「古代の地形から『記紀』の謎を解く」の第3章の10「ヤマトタケルと欽明天皇とワカタケル王」をご参照ください。 アマゾンへ
神社をここに遷した後、ここに町屋が開かれたそうですから、それまではこの根津谷の低地は湿地や田んぼだったのでしょうね。神社の門前町には遊郭も作られて賑わっていたそうです。
「根津須賀町」は明治2年に付けられた名前で、「素戔嗚命が出雲の須賀に宮居を定め、わが心須賀須賀須と言った」という『古事記』の記述から採ったという説明のようですが、このエピソードも『古事記』が創った言葉遊びのオハナシなのですよね(^_-)。
根津須賀町の由来
スサノオを祀る「日本初之宮」出雲の須我神社
ところで根津神社には、ここは東京十社の一つだと記されていたので、「東京十社」ってなんだったっけ?以前に調べてみたことがあったはずだけれど・・・と探してみたら、やはりありました(^o^)。