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高松塚古墳とキトラ古墳の被葬者

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2015.8.18 高松塚古墳とキトラ古墳の被葬者 

 

日本の王族が前方後円墳に葬られていた6世紀に、形の全く異なる円墳に葬られたのは、百済の王族であろうとここまでに推理しましたが、

 

高松塚古墳とキトラ古墳の被葬者が誰かということを特定する前に、また「地形と古代の海」に思考が飛んでしまったので、被葬者についての推理が途中になっていました。

 

6世紀に檜隈に造られた円墳「真弓鑵子塚古墳」は、太子・ウジノワキノイラツコの師として484年頃に応神天皇に招聘された百済の王族・阿知使主(あちのおみ)の墓で、7世紀末~8世紀初に檜隈に造られた円墳「高松塚古墳」は、百済の最後の王となった義慈王の王子の余善光の墓でしょう。そして高松塚古墳より一回り小さく、高松塚古墳少し前に檜隈に造られた「キトラ古墳」は余善光の息子の墓であろうと思います。

 

兄・余豊璋と共に631年頃から来日していた余善光は、百済再興のために兵と共に百済に送られた兄の豊璋が663年に白村江で大敗して百済が完全に滅亡した後、「百済王(くだらのこにきし)氏」として693年に亡くなるまで日本で暮らしていましたが、「朱鳥1(686)年の天武葬送の際には孫の良虞が善光の代理として誄(しのびごと)をした」という記事から推して、息子は善光より先に亡くなったようです。

 

長野善光寺の「御三卿の間」には、善光と妻の弥生御前と息子の善佐が神として祀られていますから、善光の息子(良虞の父)は善佐で、キトラ古墳の被葬者はこの「善佐」なのではないかと思います。息子は大勢いたかもしれませんが、両親と共に神として祀られているこの善佐が嫡男だったのではないでしょうか。そして、一族を代表して誄(しのびごと)をした良虞は善佐の嫡男だったのだろうと思います。

 

余善光が「本田善光」と記されている理由は今はまだ分かりませんが、この本田善光が開山した長野善光寺の本尊である秘仏が、第一次崇仏戦争とされている事件で物部尾輿と中臣鎌子によって壊され、難波池に投げ込まれてしまった「百済から日本へ伝えられた日本最古の仏像である阿弥陀三尊像」であり、「難波の堀江に捨ててあった」この阿弥三尊像を拾って善光寺の本尊としたのが本田善光なのですから、この本田善光とは百済の王子・余善光のことなのです。

 

本田善光がこの仏像を拾って本尊として祀ったのは、その仏像を日本に贈ったのが、善光の先祖の聖明王だったからでしょう。

 

本田善光(=余善光)の系譜は↓


応神天皇(余昆)―武寧王(余隆)―聖明王(余明)―威徳王(余昌)―武王(余璋)―義慈王(余義慈)―余善光(初代・百済王氏)―善佐―良虞―敬福


であり、善光は一光三尊の阿弥陀象を日本(欽明天皇)に贈った聖明王、仏教の体系を日本(アメノタリシヒコ)に伝えた威徳王の子孫なのです。



 

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