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百済の王子・余善光と善光寺

2015.8.19 百済の王子・余善光と善光寺

 

余善光は、「天智3(664)年 難波(大阪市)に住まわせられ、特に賜物を受けさらに封戸100戸を加増されて通計200戸と優遇された」そうです。

 

664年と言えば、白村江で大敗し百済が滅亡した翌年のことです。『日本書紀』は余豊璋と善光は人質として日本に来ていたとしていますが、664年以前にも封戸100戸を与えられていたわけですし、何の手柄も立てていないどころか百済が滅亡して人質としての価値さえ無くなってしまった善光が賜物を受け、さらに加増までされて優遇される理由はないではありませんか。普通に考えればこれが人質の待遇のはずはありませんよね(^o^)

 

歴史学者さんたちは、王族の生活費のことなど考えてみたこともない人種らしいということがここまでに分かりましたが(^_-)、王族が贅沢三昧に暮らすためには多くの富が必要で、それは自然に湧いてくるものでも神様や天皇が賄ってくれるものでもなく、その富を生みだしていたのは彼らの領地とそこに住む民なのです。

 

善光はそれまでも封戸100戸を与えられていた上に、百済が滅亡した後にはそれが倍になったということになりますが、「封戸」という言葉は律令制になってから使われた言葉のようですから、善光が与えられたのは封戸ではなく領地だったのではないでしょうか。

 

Wikipediaによれば、「封戸」という言葉は、大化2年(646年)の「改新の詔」が初出だそうですが、「改新の詔」は不比等が捏造したもので、『日本書紀』が「645年の大化の改新」として記した出来事は、実際は中大兄(本当は大兄でも皇子でもなかったのですが)が大王・石川麻呂(入鹿)を殺して政権を奪った「649年のクーデター・乙巳の変(これも649年は乙の年ですから「乙酉の変」になるわけですが)」であり、律令制への改新を目指したのは中大兄ではなく、壬申の乱後に政権に就いた天武天皇であって、中大兄(天智)は改新などしていませんし「改新の詔」も出していませんから、664年に善光に「封戸が加増された」はずはありません(^o^)

 

以前コメントでpcat2sさまに教えていただいた河内の小山善光寺は別名が「元善光寺」で、天正年間までは城山古墳の後円部外側に接する小字名「善光寺屋敷址」といわれる位置にあったのだそうですが、織田信長の河内小山城攻めの折に小山城と共に戦火で焼失してしまったため、慶長年間(江戸時代初期)に現在地に移転再建されたのだそうです。pcat2sさまのコメントは↓

 

このコメントがきっかけとなって仏像が投げ込まれたのは向原にあった難波池だったことが分かり、さまざまな謎が解けてきたのでした\(^o^)/。

 
 

難波池

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イメージ 1

 

難波池の由来

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イメージ 2

 

「天智3(664)年 難波(大阪市)に住まわせられ、特に賜物を受けさらに封戸100戸を加増されて通計200戸と優遇された」という記事と、小山善光寺のあった場所の小字名が「善光寺屋敷址」であることを考え合せると、善光が加増された領地は河内の藤井寺市小山付近で、善光が住んでいたのは難波ではなくこの河内の善光寺屋敷であり、百済が滅びて日本に永住せざるをえなくなった善光は、加増されたこの地に屋敷を構え、聖明王が日本に贈った一光三尊の阿弥陀像を祀る寺(善光寺)を建てたのではないでしょうか(^o^)

 
 
 
 
 

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