2015.8.14 藤ノ木古墳
6月に法隆寺について考えていた時、土地勘も方向感もない私は法隆寺がどこにあるのか地図上でなかなか見つけられなくて<(_ _)>、一度行ってみなくっちゃと思っていたのですが、ついに行って来ました(^o^)。
↑の時点では、用明天皇は架空の人物だと思っていたのですが、その後、用明天皇は欽明天皇の子で、アメノタリシヒコ(=馬子=聖徳太子)の父であり、実在した天皇(大王)であることが分かってきました。
実は地図で法隆寺を探していて、藤ノ木古墳がすぐ近くにあることやこの付近で富雄川が大和川に合流していること、この付近には杵築神社や登弥(とみ)神社が数多くあり、また大きな古墳がたくさんあることなどに気が付き、私の関心は法隆寺よりそっちに移ってしまったのですが(^_-)。
杵築神社(明治時代に改称して現在は「出雲大社」)は、大国主を祀る祖廟だったのですし、『記紀』はヤマトを「トミの里」、天津族に滅ぼされた最後の大国主を「トミノナガスネヒコ」と記しているのですから、トミオ川・トミ神社・杵築神社は4世紀末の天津族の侵攻以前の大国主時代のものに違いないと考えたのです(^o^)。
5月に桜井方面に行った時には、鳥見(とみ)山の中腹の等彌(とみ)神社へ行き、鳥見山の麓の桜井茶臼山古墳・メスリ山古墳が大国主の時代の前方後円墳であることを確かめてきました。このトミ山・トミ神社もトミの里の大国主に関連する名前でしょう。
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でも、今最新の関心事は「藤ノ木古墳」が6世紀後半に築造されたものであるのに前方後円墳でも下方八角形でもなく「円墳」だということ、そして、絢爛豪華なその副葬品の意匠に象があしらわれているなど日本で作られたものだとは思えないことなどに移ってしまっています(^_-)。
藤ノ木古墳に関する展示物を見ようと斑鳩文化財センターに向かった時、入り口の左に真っ赤な箱が置いてあるのを見てゴミ箱だと思い、なぜあんなに真っ赤にペンキを塗ってあるのだろう?と横目で見ながら通り過ぎたのですが、展示を見てあれは赤いゴミ箱ではなく、朱を塗った藤ノ木古墳の家型石棺を復元展示したものだったことが分かりました(^o^)。
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というわけで、今はまだトンチンカンな感想しかでてきませんが(^_-)、資料を収集してきたのでこれからゆっくり考えてみることにします。