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千国街道・塩の道

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2016.5.26 千国街道・塩の道

 

出かける前に「糸魚川―静岡構造線」について調べてみて、「糸魚川―静岡構造線」とは「塩の道・千国街道」のことで、千国街道とは148号線のことのようだったので、塩尻からその道を通って糸魚川まで行こうと考えたのですが、実際にルートを調べ始めると、塩尻~松本は19号、松本~大町は147号、大町~糸魚川は148号となっていて、構造線がどこにあるのかは分かりませんでした<(_ _)>

 

けれど、千国街道は古代に塩を運んだ道で、構造線に沿った道だと書いてありますし、他には糸魚川へ向かう街道はないようだったので、行ってみれば分かるのではないかと147148号で糸魚川に向かうことにしたのですが、塩尻の平出遺跡や平出博物館や釜井庵でゆっくりしてしまったので、先は長いのに時間が無くなってきてしまいました<(_ _)>。そこで釜井庵から松本に向ってひたすら走り147号に入ったのですが、この道は想像(期待?)とは違って開けたところを走る平らな道で、断層や構造線らしいものは全く見あたりませんでした<(_ _)>

 

変だね~、この道はフォッサマグナの海の中を走っているんじゃないの?と言いながら走っていたのですが、改めて地図を見ると、大糸線や147号線が走っているのは松本盆地の真ん中ですから、やはり海の中だったのです(^o^)

 

盆地の西側には山裾を通る道があったようですから、そちらが古い道だったのかもしれません。この時は何だか変だと思いながらも147・148号線が「塩の道」なのだと思い込んでいたのですが、翌日資料館で「塩の道」の地図や資料を入手し、お話を伺ったら、148号線は明治になって作られた道で、昔の「塩の道」ではないということが分かりました(T_T)。姫川は暴れ川だったので、川沿いに道は無くて、昔の「塩の道」は山越えをする道だったのだそうです。

 

おまけに帰ってきてから読んだ塩尻の資料には、本洗馬を起点に釜井庵の方から北に向かう道(仁科街道)が中世の「千国街道」だと思われると記されていたので、せめて明治の道ではなく中世の道を辿りたかった・・・と悔やんだのですが、あとのまつりです(T_T)

 

本洗馬から北に向かう仁科街道(千国街道) 

イメージ 1

イメージ 2


地図や資料には148号線が千国街道で塩の道だと書いてあったのですが、地形の変化や、交通手段の変化など時代によって道は変わっているのに、現代の道も古代もいっしょくたにしていて、それを元に説明が書かれていることが多いようで、本当のことは実際に行ってみたり、地域の資料を調べてみたりしないと分からないことが多いのですよね~<(_ _)>

 

松本盆地が海だったということはすでに分かっているようなので、マッコウクジラの全身化石が出土したという旧四賀村は、松本盆地のどの辺りにあるのだろうと四賀化石館を探してみたのですが、見つけることができませんでした<(_ _)>。そこで検索してみると、なんと四賀村と化石館は現在の松本盆地の中ではなく、東側の山の中にありました。地図では、山の中の小さな盆地のようで標高は690mくらいのようですが、この山地も当時はマッコウクジラの泳ぐ深い海だったのですね。

 

やはり地形の変化ということを考えなければ、古代史の謎は解けないようです(^o^)

 

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