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塩尻の縄文遺跡5

2016.5.24 塩尻の縄文遺跡5

 

平出遺跡からは、豪華な模様で飾られた土器や石器が多量に出土していることから見て、豊かで安定した生活が営まれていたと考えられるそうですが、こちらも八ヶ岳南麓から甲府にかけて住んでいた縄文人と同じように、塩湖や内陸に入り込んだ遠浅の穏やかな海に面していて塩も食料も豊富にあったため、豊かで安定した生活を送れていたのでしょう。

 

今回「塩の道」の歴史を垣間見て、江戸時代には海が無くなっていた長野や山梨が塩を入手することがどれほど大変なことだったのかがよく分かり、やはりそれが商売になるならともかくとして、古代に自分たちが消費するためにそんな無駄な努力はしなかっただろうと思いました(^_-)

 

私は内陸の貝塚を見て、貝のような重くて腐りやすいものを海辺から何十㎞も何百㎞も歩いて運んで来たはずはないから、その貝は近くで採れたのだろうと現実的に考え、貝塚がある所は当時海辺だったのではないかと考えたのですが、自分で買い物や食事の用意をするわけではない学者さんたちは、たぶんそんな現実的なことを考えてみることなどなかったのでしょうね(^_-)

 

でも人間の生活はカミサマが何とかしてくれるものではなく、現実そのものなのです。生命維持に不可欠な塩を遠くから苦労して運んで来なければならなかったとすれば、体を過剰なほどのアクセサリーで飾ったり、土器に実用には不要な装飾をつけたりするような時間的・精神的な余裕はなかったのではないでしょうか(^o^)

 

私は塩がどうしても必要なものであるなら、わざわざ遠い所まで採りに行って苦労して運んで来たりはせず、塩を手に入れやすい所に住みついたはずだと考えたのですが、八ヶ岳南麓や甲府盆地の周辺や塩尻は、当時は塩や貝や魚、運がよければ時には大きなクジラも手に入るような場所だったのです(^o^)。だからこそ旧石器時代から人が住みついて集落が栄え、文化が育っていたのでしょう。

 

塩尻も八ヶ岳南麓や甲府盆地の周辺と同じ文化圏だったのか、土器の装飾もよく似ているようです。

 

平出遺跡の顔の付いた土器 

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イメージ 1

山梨の顔の付いた土器

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イメージ 2

 

平出の縄文土器 

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イメージ 3

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平出の縄文時代の遺跡は早期から晩期(80003000年前)まであるそうですが、最も栄えたのは縄文中期(55004500年前)で、110軒以上の住居跡が見つかっているそうです。時期的にも八ヶ岳南麓から甲府盆地にかけて縄文文化が花開いていたのと同じ頃ですね。その頃は、塩尻と八ヶ岳南麓や甲府盆地の周辺はまだ舟で行き来できていたのでしょうか。

 
 

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