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Channel: 歴史探訪
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塩尻の縄文遺跡4

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2016.5.23 塩尻の縄文遺跡4

 

塩尻の平出遺跡では、平出の泉から流れ出る渋川に沿って集落跡が東西1kmに渡って分布していたそうですが、この川の水は、古代には塩分を含んでいたのかもしれませんね。川が当時から真水だったなら「渋川」という名前は付かなかったのではないでしょうか(^o^)

 

平出の泉 

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そんなふうに考えたのは、フォッサマグナは深い海で、塩尻は古代には海だったことが分かりましたし、大鹿村の中央構造線博物館の前を流れている川は「小渋川」という名前で、塩と深い関係があることがここまでに分かっているからです。同じ地名の所はほぼ同じような地形や特徴を持っているなど、地名やものの名前は誰もが納得するような付けられ方をしていたのです(^o^)


 群馬県も1600万年前は海に囲まれた島だったのですから、渋川市の「渋川」も塩やニガリに由来しているのかもしれませんね。榛名山も赤城山も海底から育ってきた火山なのでしょうし(^_-)
 

縄文時代には土地がまだ大量の塩分を含んでいて、下流に行くほど「渋川」になっていったとしても、泉に湧く水は真水で、平出遺跡の中でも真水の湧く泉の周辺は当時の一等地だったのではないでしょうか。泉に近い辺りには大きな雀踊りの棟飾りをつけた本棟造りの家がありましたが、ひょっとすると縄文時代からここに住んでいた人々の子孫なのかも(^o^)

 
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平出遺跡のガイダンス棟の近くには中山道の一里塚がありました。この一里塚は1600年代に造られたようです。平らな所を通っているこの道は、この辺りが陸地化してたくさんの人が住み始めてからできた道でしょう。牛首峠を越える初期の中山道付近は不便になって人も少なくなっていたので、平らな所を通り、人家も多いこちらの道にルート換えされたのだろうと思います。

 
平出一里塚
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右奥の建物が平出遺跡のガイダンス棟で、遺跡は山裾の方にかけて広がっています。

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