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塩尻の縄文遺跡2

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2016.5.20 塩尻の縄文遺跡2

 

地域の博物館や地域資料には、机上で『記紀』のつじつま合わせをした歴史解釈本には絶対に記されていない謎解きのヒントが満載なのです\(^o^)/。

 

平出遺跡のガイダンス棟では↓のガイドブックを購入してきたのですが、ここからもいろいろなことが分かってきました。


イメージ 1

塩尻は盆地かと思ったのですがそうではなく、北を除く三方を山に囲まれた扇状地で、松本盆地の南端なのだそうです。長野を紹介する写真には必ず山が写っていますから、私はずっと長野は山国なのだと思っていたのですが、塩尻市は↓の様に平らでした。

 
イメージ 2

この平らさは、海の波と海底への堆積によるものだろうと思ったのですが、この資料には、「市の南方の山地はジュラ紀の堆積岩で、ウミユリの化石も出土している」と記されていましたから、やはり塩尻は海だったのです\(^o^)/。この扇状地は、松本盆地(古長野湾)の海に注いでいた川と徐々に退いて行った海が作ったもののようです。


松本盆地が海だったことは、2日後に行った長野市立博物館でも確認することができました\(^o^)/。

 

そしてここには、中山道・仁科街道・善光寺街道(北国西街道)・五千石街道・三州街道・牛首峠と小野峠(初期の中山道)・権兵衛街道の7つの街道が通り、7つの宿場があったのだそうですが、初期の中山道がずっと南の牛首峠と小野峠を越える山地を通っていたのは、この道ができた頃、この道の辺りに多くの人が住んでいたということではないでしょうか。道は人が往来することでできるのですから(^o^)

 
イメージ 4

諏訪湖周辺には旧石器時代からの遺跡があるのだから、塩尻にもあるに違いないと思って探してみて、縄文時代~平安時代の平出遺跡があることが分かったのですが、旧石器時代には、平出遺跡のある標高730mの辺りはまだ海か湿地で、人は住んでいなかったのかもしれません。

 

低い所に多くの人が住んでいて、平らな場所を楽に往来できるのに、わざわざ高い所まで登ってから峠越えをして往来したりはしなかったでしょうから(^_-)、当時は初期の中山道が通っている辺りに多くの人が住んでいたのではないでしょうか。この資料には、「塩尻に人が住み始めたのは15000年前の旧石器時代からと思われる」と記されていましたから、旧石器時代の遺跡があるとすればこの高さかもしれません(^o^)

 
イメージ 3

平出遺跡に行った時には、まだ資料はなかったのですが、縄文時代からの遺跡があるということは海だったに違いないと考えたので、ガイダンス棟で貝塚はありませんか?と聞いてみたところ、ないというお返事でした。

 

でもここに住んでいた人たちが一番安定して手に入れやすい貝を食べていなかったはずはありませんから、まだ発見されていないだけでどこかにあるのではないかと私は思うのですが(^_-)

 

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