2016.5.19 塩尻の縄文遺跡
古代史考察が、糸魚川からまた宇宙にまで飛んで行ってしまいましたが(^o^)、連休に糸魚川まで行くのに、なぜ塩尻で高速を下りて一般道を走っていたのかというと、糸魚川―静岡構造線というのはどういうものなのかを知りたかったのと、推理どおりに糸魚川から諏訪まで海が続いていたということを確かめたかったからなのです。
そのためには新幹線や高速道路で糸魚川に行ってしまうわけにはいかないので、長距離だけれど全部車を使い、諏訪湖からはなるべく構造線に沿った古い道を辿りたいと思ったのですが、全く土地勘もないまま調べていると、148号線が千国街道(糸魚川街道)で構造線に沿った「塩の道」だとあちこちに書いてあるのでその道が古い道に違いないと考え、147・148号線を辿って糸魚川に向かうことにしました。
地図を見るとこの道の周辺には諏訪神社がたくさんあります。それではやはりこの道は古い道でタケミナカタやその子孫達と深い関係があるようだから、この道沿いに順番に諏訪神社を訪ねつつこの道の周辺の地形を見、先々の資料館や博物館に寄ってこの辺りの歴史を知るための資料を収集しようと考えたのですが、地図を調べているうちに塩尻は盆地のようで、糸魚川(千国)街道・三州街道・中山道、中央本線(東線・西線・辰野線)・篠ノ井線・大糸線など東西南北を結ぶ主要な街道や鉄道が全部集まる結節点であって交通の要衝だったようだということが分かってきました。
諏訪盆地は元は海で、諏訪湖は古代には塩湖だったことは間違いないようなので(^o^)、それなら塩尻も元は海だったのではないか、そうであれば縄文時代の遺跡があるのではないか?と考えて「塩尻の縄文遺跡」を探してみると、やはりありました\(^o^)/。それも、日本三大遺跡と言われる縄文時代から平安時代に及ぶ大規模な集落遺跡なのだそうです。なぜか私はこれまで全く聞いたことがなかったのですが<(_ _)>。
そこで急遽予定を変更し、諏訪神社を辿るのは止めて塩尻の平出遺跡と博物館に行ってどういう場所なのかを確かめ、そこに長い間大規模集落が栄えていた理由を知るために資料を収集することにしました(^o^)。
地方のことは、学者さんの書いた本や国立の博物館などで本当のことが分かることはまずなく<(__)>、現地に行って自分で見、五感で感じ取って、地域の資料館や博物館で資料を収集したり、現地の方のお話を聞いたりすることでしか分からないのですよね。権威ある肩書きをお持ちの学者さんたちは、みな『記紀』信奉者のようで、書かれていることは『記紀』に沿ったものばかりのようですから<(_ _)>。
今回もいろいろ収穫がありましたし、地域資料からは塩尻が海であった証拠も手に入れることができました\(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/。
平出遺跡の案内