2015.8.9 切石の石室と石槨9 関東の石舞台・八幡山古墳の被葬者は誰か?4
「朝廷は笠原使主を武蔵国造と定め、小杵を誅した」ということからも分かるように、国造というのは「地方に割拠していた豪族」ではなく、朝廷が地方経営のために定めた地方長官のようなものだったのですから、国造が支配していた地域は朝廷の支配下に置かれていた地域だったのです。
ヤマトでは、622年に亡くなった大王・アメノタリシヒコ(蘇我馬子)の墓(石舞台古墳)が下方上八角形墳として造られるまで、大王の墓の形は前方後円墳であり、各地の国造の墓はそれに倣って大王墓よりも小さく造られていたのですから、6世紀の武蔵国に大王墓とは異なる形の円墳が造られたはずはありませんし、ましてやそれが日本最大のものだったはずはないのです。
近年になって復元整備されるようになるまでは、どの古墳も原型が分からないほどに削られて農地や宅地になってしまっていたようですから<(_ _)>、6世紀に造られた直径105mの円墳だとされている丸墓山古墳や、80mの円墳だとされている八幡山古墳は、本当は円墳ではなく前方後円墳の後円部だったのではないでしょうか?
現在は全長120mの立派な前方後円墳として復元されている稲荷山古墳も、昭和12年にはまだ前方部が残っていましたが↓
昭和43年にはなくなってしまっていたようです・・・<(__)>
稲荷山古墳には昭和12年当時の写真が残っていましたが、もし丸墓山古墳の前方部が削られたのが15世紀の忍城の水攻めの時だったのであれば、元の形は写真にも記憶にも残されていないわけですよね。三成は短期間で石田堤を築かせたのですから、手近にあったこの古墳を崩して築堤に使ってしまった可能性は高いのではないかと思うのですが(^_-)。
丸墓山古墳と八幡山古墳が円墳ではなく元は前方後円墳だったとすると、武蔵国最大の前方後円墳は直径105mの丸墓山古墳だということになりますが、それでもまだ、直径155mの欽明天皇の丸山古墳の三分の二ですから、大王墓よりはずっと小さいわけです(^_^.)。
全長 後円部径 後円部高
丸山古墳 318m 155m 21m
丸墓山古墳 ? 105m 18.9m
稲荷山古墳 120m 62m 11.7m
以前、6世紀の前半に造られた武蔵国最大の前方後円墳だという二子山古墳が「武蔵国造だった笠原直使主」の墓なのではないか?と考えたのですが、ヲワケ臣の墓(稲荷山古墳)と並べて造られたこの丸墓山古墳が、この頃北武蔵・南武蔵の両方を手に入れたことで大きな財力を持つようになった武蔵国造・笠原直使主の墓のようです。
稲荷山古墳より新しい形式の横穴式の埋葬施設を持った武蔵国で二番目に大きい八幡山古墳は、一世代後の笠原直使主の息子のお墓なのかもしれません。すると6世紀初頭に造られたという二子山古墳は先代の武蔵国造だった笠原直使主の父のお墓でしょうか(^o^)。
いずれにしても武蔵国にその支配者であった武蔵国造より大きな墓を造ることができた人はいなかったはずですから、6~7世紀に造られた大型古墳は武蔵国造・笠原使主一族の墓であろうと私は思います。