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切石の石室と石槨7 関東の石舞台・八幡山古墳の被葬者は誰?2

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2015.8.7 切石の石室と石槨7 関東の石舞台・八幡山古墳の被葬者は誰?2

 

534年の「武蔵国造の乱」で笠原直小杵(おき)が滅ぼされた後、北武蔵と南武蔵は統合されて「武蔵国」となり、南武蔵も手中にした笠原直使主(かさはらのあたいおみ)は、そのうちの横渟・橘花・多氷・倉樔の4郡を朝廷に屯倉として献上しています。そしてその後、国造の本拠地は北武蔵の行田から、「統合された武蔵」の中央に位置する多摩川沿いの現在の東京都府中市に移され、律令制が施行されるとここに武蔵国の国府が造られています。

 

府中市大国魂神社の境内から発掘された武蔵国府跡

 
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「武蔵国造の乱」は武蔵が北武蔵と南武蔵に分かれて統治されていた6世紀前半の欽明天皇の時代のことだったのですが、その約200年後の8世紀初めに常陸国司となった藤原宇合に随行してきた高橋蟲麻呂は、さきたま地方を訪れて↓の歌を残しています。

 

埼玉の小埼の沼に鴨ぞ翼(はね)きる己(おの)が尾に

      ふりおける霜を掃(はら)ふとならし

 

高橋蟲麻呂が視察に訪れた8世紀初めには、海の後退によってすでに「さきたまの津」は無くなっていて、いくつもの大きな沼や湿地にその名残を留めるのみだったようですから、国造の本拠地が多摩川沿いの府中に移されたのは、北武蔵と南武蔵が統合されたことだけが理由ではなく、海の後退によってさきたま地方が内陸になってしまい、舟運の便が悪くなったことが大きな理由だったのだろうと思います。

 

この後15世紀になると、この沖積低地の微高地には石田三成の水攻めで有名な「忍(おし)の浮き城」と呼ばれた忍城が築城されていますから、その頃には湿地は水田となり、微高地は城や城下町が造られるような陸地になっていたのです(^o^)

 

忍城

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この「忍城」については、和田竜著「のぼうの城」がとても参考になりました。映画「のぼうの城」では、さきたま古墳群の丸墓山古墳に陣取った三成が水攻めのために「石田堤」を造らせるところで、崩された古墳から埴輪が転げ落ちてくるシーンがありました(^o^)
 
忍城絵図
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現在ではすっかり住宅地になっています。

この小説では、三成が利根川の堤防を切って水攻めをしたとされていましたが、本当はこの頃の利根川は直接江戸湾に流れ込んでいて行田市付近を流れてはいなかったんですよね(^_-)。利根川が付け替えによってこの付近を流れるようになったのは17世紀のことですから、三成が堤防を切ったのは利根川ではなく、「古毛野川(鬼怒川)」だったようです(^_^.)

 

ともあれ、56世紀には海で「さきたまの津」だった行田市の沖積低地は、8世紀には沼と湿地に、15世紀には城下町と水田地帯に、21世紀には住宅街やゴルフ場になっているわけですから、この変遷を見ただけでも地形が変化し続けていたことが分かりますよね(^_-)

 

ちなみに先日テレビで見たのですが、今、忍城では「のぼうの城」の登場人物たちが甲冑姿で殺陣を披露したり、案内をしたりしてくれているそうです。でも、ただでさえ暑い行田市で、連日の猛暑の中甲冑姿では熱中症にならないかと心配になりますね(-_-)

 
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2007年に初めて行田に行った時には、36℃というその日の気温に驚いたのですが、2015年の今年は、40℃近いのです。2007年のその日には熊谷市が40℃を記録したことが大きなニュースになっていたのですが、今年はそのくらいの気温はもう日常茶飯事になってしまったような・・・・<(_ _)>


 

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