Quantcast
Channel: 歴史探訪
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1389

切石の石室と石槨6 関東の石舞台・八幡山古墳の被葬者は?

$
0
0
2015.8.6 切石の石室と石槨6 関東の石舞台・八幡山古墳の被葬者は誰か?
 
かつての武蔵国は広大で、7世紀の律令制以前には、无邪志(むさし)、胸刺(む(な)さし)、知々夫(ちちぶ)の3つの地域にそれぞれに国造が置かれていたそうですが、そのうちの无邪志の国は荒川流域を支配地とする国で、その中心が埼玉県の行田周辺の古代埼玉(さきたま)地方だったのです。
 
ただし、この広大さは現代の地図で見た時の広さであって、現在の関東平野(沖積低地)は古代には海であり、古代のさきたま地方は「さきたまの津」のある海辺だったのですから、56世紀の武蔵国の陸地面積が他の旧国に比べて特に広大だったわけではないのですが。
 
この頃の南武蔵の地形が分かる地図が『南武蔵風土記』」にあったのですが、写真が見つからなくなってしまったので↓でご覧ください。川の周辺の白いところが沖積低地で、56世紀には海だった所です。
 
6世紀には武蔵国は北武蔵と南武蔵に分かれていて、北武蔵を武蔵国造の笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が、南武蔵を同族の笠原直小杵(おき)が支配していたのですが、欽明天皇の時代に小杵が武蔵国造の地位を狙って使主を殺そうとし、逃げ出した使主が都に上って朝廷に助けを求めるという事件(武蔵国造の乱)が起き、朝廷は使主を武蔵国造と定めて軍を派遣して小杵を誅しています。
 
この事件は『日本書紀』では安閑天皇元年(534年)条に記載されているのですが、安閑天皇は『日本書紀』が創った架空の天皇であり、この時の大王(天皇)は、531年に辛亥の変で安閑・宣化を殺して磯城で即位した欽明天皇です。そして、この時に欽明天皇が武蔵に派遣した軍を率いて来たのが崇神天皇の伯父・オオヒコノミコトの7世の孫で「杖刀人の首(親衛隊長)」の地位にいたヲワケ臣であったこと、辛亥の年(531年)にワカタケル王(欽明天皇)が磯城で即位したことが、このヲワケ臣が造らせた鉄剣の金錯銘文に刻まれていたのです。
 
稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣
 
イメージ 1

 
学者さんたちは、ワカタケル王は雄略天皇で、辛亥の年は471年だとしているので、この辺りはつじつまが合わず「謎」だらけになっていて、wikipedia によれば武蔵国造の乱は「伝承性が強いため、事実か創作かは明らかとなっていない」そうですが、謎だらけになっているのは『日本書紀』がウソを書き、学者さんたちがそのウソを無条件に信じたからであって、この事件は531年の辛亥の年の後に実際に起きたものであることは「鉄剣の金錯銘文」が示しています(^_-)
 
雄略天皇や安閑天皇は『日本書紀』が創り出した架空の天皇であり、『古事記』はこの事件を1世紀の景行天皇の時代の「ヤマトタケルの東国征伐」というオハナシに仕立てて記しているのですが、景行天皇とヤマトタケルノミコトも『古事記』が創り出した架空の人物です(^o^)。この辺りの説明は、「古代の地形から『記紀』の謎を解く」の第3章「『古事記』の語る神話と実際の歴史の関係を推理する」をご参照ください。 アマゾンへ
 
この八幡山古墳は若小玉古墳群にあるのですが、この若小玉古墳群は、鉄剣の出土した稲荷山古墳のあるさきたま古墳群のすぐ近くですし、その南東には笠原の地名もありますから、この一帯が笠原直使主の本拠地で、この一帯にある4世紀以降の古墳は全て武蔵国造とヲワケ臣の一族に関連するものだろうと思います。
 
武蔵国については2012.12.22の↓から延々と書いていますので(^o^)、ご興味がおありでしたらこちらからどうぞ。
 

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1389

Trending Articles