2015.8.5 切石の石室と石槨5 関東の石舞台・八幡山古墳4
もし全長16.7mもの長大な石室を持つこの八幡山古墳が円墳ではなく、石舞台古墳以前に造られた前方後円墳であり、中室から見つかったという漆塗りの絹布の破片は夾紵棺の破片ではなく副葬品の破片であって、奥室には石棺があったのだとすれば、この古墳は7世紀前半の石舞台古墳以降に王族の墓が八角形墳に変わる直前に北武蔵に造られた最後の前方後円墳なのかもしれません。
石舞台古墳の石室は19mですが、羨道部分が11.5mで室は7.7mの玄室が一つあるだけですし、石舞台古墳より後に造られた八角形墳である岩屋山古墳の石室も17.7mありますが、羨道部分が12.9mで室は4.8mの玄室一つだけです。
アメノタリシヒコ(天智天皇が出したのではありません)が薄葬令を出した後で、それに逆らって大王墓をもしのぐ長大な石室が造られたはずはありませんし、天武天皇以降は巨大な石室は小ぶりな石槨に変わっているのですから、やはりこの八幡山古墳は石舞台古墳以前に造られた前方後円墳だったのではないでしょうか。
もし八幡山古墳が石舞台古墳以前に造られた前方後円墳の後円部であったとすれば、欽明天皇の見瀬丸山古墳の後円部径は155mですから、直径80mの八幡山古墳はその約二分の一の大きさだったということになりますし、大王墓としては最後の前方後円墳である用明天皇の梅山古墳の後円部径は73mですから、八幡山古墳は梅山古墳とほぼ同じくらいの規模の前方後円墳だったということになり、地方の王族が大王より大きな墓を造ったということにはならないようです。
丸山古墳(欽明天皇の墓)
宮内庁が欽明天皇陵だとしている梅山古墳 (用明天皇の墓)
中央で決めたことが遠く離れた地方に伝えられて実行されるまでにはタイムラグがあったと思われますが、八幡山古墳が前方後円墳だったとすれば、後円部の大きさから考えて、この古墳は丸山古墳と梅山古墳の間に造られたものだと思われます。
梅山古墳が造られた後であれば、地方の王族が大王墓である梅山古墳と同じ大きさの墓を造ることはできなかったでしょうから、八幡山古墳は用明天皇の時代(571~585年)に丸山古墳の二分の一の大きさに造られた前方後円墳だったのではないでしょうか(^o^)。
そうであれば八幡山古墳の被葬者は、571年から585年の間くらいに亡くなった北武蔵の支配者だった王族だということになりますから、だいぶ絞られてきますね(^o^)。