2016.4.13 弥生土器と弥生町
古代の地形に関心を持ち始めた頃、弥生時代の「弥生」は、「1884年(明治17年)に東京府本郷向ヶ岡弥生町(現在の東京都文京区弥生)の貝塚で発見された土器が発見地に因んで弥生式土器と呼ばれたことに由来している」ということを知って、「縄目模様の縄文」に対応するものなのだろうと思っていた「弥生」が町の名前であったことや、発見された場所には貝塚があったということに驚き、信じられない思いでその場所を確かめに行ってみたことがあります(^o^)。
貝や縄文式土器と共に出土したという弥生土器の発見場所自体は街角に石碑があっただけで何の感慨も湧きませんでしたが、
それがあった場所から、私はそれまで漠然と考えていたことを地理的に確認することができました。現場には行ってみるものですね\(^o^)/。
・・・確かに、科学データは客観的に見える。しかしデータAを眼にしているすべての観察者が、全く同じ客観的事実A´を見てとっているわけではない。一見は百聞に勝るかもしれない。が、その一見が、もたらすものは異なる。その異なり方を作り出すものが理論負荷性というフィルターなのである・・・ 「生物と無生物のあいだ」より
そうなんですよね。私がこれまでに眼にした本や記事には客観的なデータは記されていてもその解釈は恣意的で、私が見たいものや知りたいこと、納得できるような「客観的事実A´」はどこにも記されていなかったのです<(_ _)>。
同じものを見ていても、見方やそこから見てとっているものが違うということなのでしょう。そのために私は、他人の目や頭を通して見るのではなく、現場へ出かけていって自分の眼で見て自分の頭で考えようと思うようになったのです(^_-)。
それまでお茶の水駅前の東京医科歯科大学の構内に貝塚があること、本郷台や湯島台の神社にはたいてい海に関する記述があること、浮世絵には見えるはずのない海が描かれていること、本郷の森鴎外の家(観潮楼)からは海が見えていたことなどから、下町は古代には海だったのではないかと考えていたのですが、この石碑が本郷台地の端の坂の途中にあるのを見、そこには貝塚があったことを知って、私は弥生時代には本郷台地の下は貝の豊富に採れる遠浅の海だったということを確信しました\(^o^)/。不忍池はやはり海だったのです。
言問い通りから根津に下る弥生坂
百聞不如一見、百見不如一考、百考不如一行