2016.4.15 弥生土器と青銅器と鉄器
本郷台地の麓の根津は、弥生時代には本当に「津(みなと)」だったのかもしれませんね(^_-)。
弥生土器の焼成技法は、土器の焼成前の赤彩(縄文土器は焼成後に赤彩)といっしょに九州北部で発生したと推察されているそうですが、九州から関東まで時期差があり、弥生土器の出現が東に行くにしたがって遅くなっているそうです。
これは、この技法を持って縄文晩期から北九州に渡来し、先住の縄文人たちを周辺の島や辺境の地へ追いやって、200年代には北九州の沿岸地域に邪馬台国を始めとする『魏志倭人伝』に記されているようなたくさんの小部族国家を作っていた弥生人たちが、徐々に東へ勢力を広げていったということでしょう。
そしてこの時期は、日本も銅剣・銅矛・銅鐸の青銅器時代から鉄器時代へと移行した時期でもあるのですが、この青銅器時代の終焉は、2~3世紀に銅よりも圧倒的に固く強い鉄の武器や農具、それを作る製鉄技術を持ったスサノオの一行が朝鮮半島から出雲に渡来し、息子のイソタケル達と共に出雲から全国へと大国主体制を広げていったことに伴うものであり、関東地方への弥生土器の波及は、スサノオの息子の一人のタケミナカタが諏訪に進出し、その子孫達が諏訪から新潟~福島および関東各地へ進出していったことに伴うものであろうと思います(^o^)。
『古事記』の出雲神話は、天津族が渡来してくる前のこのスサノオとその子孫達の2~4世紀末の歴史を「神話」に仕立てたものであり、アマテラスが大国主に譲らせた「葦原中国」とは出雲のことではなく、神武が戦い取ったという「神話」に仕立てたヤマトのことなのです。
このことについては「古代の地形から『記紀』の謎を解く」をご参照ください。古代史が謎だらけになっているのは、学者さんたちに事実とは異なる「古事記の神話」を前提に全てを解釈するという「理論負荷のフィルター」がかかっているからではないでしょうか(^_-)。
スサノオが渡来してきた時、出雲地方に小部族国家(ムラ)を作って争いを繰り返していた首長たちは、鉄の武器や農具を持ってやってきたスサノオに臣従し、出雲地方には製鉄のためのタタラが作られて鉄の生産が始まり、新体制に伴って前首長たちの銅鐸・銅剣・銅矛といった青銅の祭器類は集められて埋められたのだろうと思います。
銅鐸が埋められていた加茂岩倉遺跡
358本の銅剣と16本の銅矛と6個の銅鐸が埋められていた荒神谷遺跡
賀茂岩倉遺跡と荒神谷遺跡の位置関係 奥が荒神谷遺跡
だからこそ、少人数で渡来してきたにもかかわらず九州から新潟・福島までの広い範囲を傘下に収める大国主体制を築くことができたのではないでしょうか(^o^)。圧倒的に強い鉄の武器を持っていたとしても、剣や桙はピサロたちがインカに持ち込んだ銃のように一方的に大量殺戮ができるような兵器ではなかったのですから、