2016.3.26 池生神社42 フォッサマグナと新潟の諏訪神社3
新潟には出雲崎という地名がありますが、この地名は進出していった出雲族が本拠地としたところなのではないか?それなら出雲崎には諏訪神社があるのではないか?と調べてみると、やはり出雲崎には諏訪神社たくさんありました\(^o^)/。
また『古事記』は、(崇神天皇の伯父の)北陸将軍・意富比古命(オオヒコノミコト)は、北陸を平定した後新潟から会津に向かい、太平洋側を平定しながら北上してきたわが子の軍と会津で合流したと記しています。「だからそこを会津という」という例の言葉遊びの「故事付け」ですが(^o^)。
けれど、これは根拠のない作り話ではないだろうと私は思います(^o^)。新潟から会津には阿賀野川沿いに古い道が通っていて、鉄道も通っていますから、オオヒコは、本当に阿賀野川経由で会津に向かったのでしょう。会津盆地も古代には海だったのですしね(^_-)。
このルートは旧石器時代からの日本海側と太平洋側を結ぶルートであって、2~3世紀のタケミナカタの子孫達も、4~5世紀の天津族もこの道を通ったのだろうと思います。
なぜタケミナカタの子孫達も通っただろうと考えたかというと、新潟からも会津からも三角縁神獣鏡が出土しているからです(^o^)。学者さんたちは相変わらず「三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡だ」と信じて疑わないようですが、三角縁神獣鏡は日本各地からすでに500面以上も出土しているのですから、卑弥呼が貰ったという100面の鏡のはずがありませんし、北九州の小国・邪馬台国の女王だった卑弥呼が、連合していた邪馬台国周辺の王達に配ったというのならともかく、新潟・福島の方までのなんの関係もない王達にまで貴重な鏡を広くバラまく理由などないではありませんか(^o^)。
「だから、僕は歴史家には呆れ返るのさ。彼らときたら、一つの事態の納得性ということに関して何にも考えてみようとしないらしい。」 (『時の娘』のグラント警部のセリフより)
関東からもたくさんの三角縁神獣鏡が出土していますが、三角縁神獣鏡が出土するのは、大国主の傘下にあった(大国主を祀る神社のある)クニグニの前方後円墳からですし、何よりも大国主のお膝元の古墳から大量に出土しているのですから、これらの鏡は卑弥呼が配ったのではなく、歴代の大国主が作らせて傘下の王達に配ったものでしょう(^o^)。
大国主のお膝元の椿井大塚古墳からは32面、黒塚古墳からは33面の三角縁神獣鏡が出土しているのです。黒塚古墳の展示館に行った時、↓の展示を見ながら「あれ?ここからも?椿井大塚古墳からもたくさんでていたよね?」とつぶやいたら、郷土愛溢れるボランティアさんたちが、「椿井大塚よりもウチの方が1枚多いのだ」と口々に説明してくださったことを思い出しました(^o^)。
展示館の復元石室
これらの鏡が副葬されていた黒塚古墳
ミステリーとか謎とか書いてありますが、そもそもそれらの謎は、学者さんたちが「邪馬台国はヤマトにあって纏向は卑弥呼の都であり、箸墓古墳は卑弥呼の墓で、三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡である」という間違った前提(思い込み)で説を組み立て、無理につじつまを合わせようとしたために生じてしまったものであって、正しく因果関係を辿っていけば謎もミステリーもないのです(^o^)。
逆にいえば、どれほど権威ある肩書きをお持ちの学者さんの、どれほどもっともらしい説であっても、謎が生じてしまうのであればその「説」は間違っているということなのですが(^_-)。
肩書きを根拠に、検証もせずに鵜呑みにしてはならないのです(^o^)。
http://blogs.yahoo.co.jp/sweetbasil2007/41037134.html